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台無し

 
役に立たなくなること。物事がすっかりだめになることを指す。
 「雨で着物が台無しだ」「計画が台無しになる」「一生を台無しにする」などと使われる。
 「台が無い」のと「台が有る」のとでは何が違うのであろうか。
 問題は「台」である。

 目上の人にものを差し上げたりする時に、三方のような「台に載せる」のが正しい礼儀作法であった。宮中の礼儀作法に由来する習慣である。
 せっかくの珍宝であっても、そのまま差し上げるのは礼を欠くものであり、その人の品格を疑われた。「心を尽くして選んだもの」であっても、「台を欠く」ことによって、その好意も評価されず、努力は無になってしまう。

 仏像に台がなければ、威厳がないだけではなく、すぐに倒れてしまう。横になってもいい仏像は、釈迦の涅槃像だけである。そこから「おシャカになる」という言葉が生まれ、「台無し」と同じように使われる。
 基本的なことがいい加減だったから、形をなさず、面目を失い、物事を駄目にしてしまう。後悔しても始まらないのである。

 今は、すべて略式になって「台」を使うことは珍しくなり、「台そのものが無く」なってしまった。そのくせに、意味だけは変わらずに使われている珍しい言葉といえる。


大根を千六本に切る


 料理の本に「大根を千六本に切る」と書かれていることがよくある。
 何故「千六本」でなければならないのか。
 江戸の川柳に
   五百三本に切る下女  というのがある。
 料理が下手といっているに過ぎないのだが、大根を五百三本に切ること自体大変なことである。
 大根の切り方にはいろいろな方法があり、「桂むき」もその一つで素人は結構苦労する切り方である。しかし、「千六本切り」は日常的な切り方で、その数字にこだわっているのではない。ただ細い棒状に切ればいいのであって、それも刺身のツマのような細さが求められているのではない。
 現在の料理学校では、4cmの長さで2mm角のマッチ棒のような形に切ることを「千六本切り」の基本としているようだ。だがこれは形式的指導法であって、単に乱雑な「千切り」ではないこと、そのためには訓練が必要だといっているに過ぎない。

 「千六本」という数字にこだわった調理法ではないのであって、「千」も「六本」も、古代中国の調理方法に由来する言葉である。

 まず「千」は、繊(シェン)であり、繊維にそって細く切ることから来ている。
食べ物には、肉であれ魚であれ植物であれ、必ず特有の「繊維」を持っている。その繊維にそって切ることを「繊(シェン)」といった。これとは別に繊維を断ち切るようにすることは「断(ダン)という。
 切り方によって食感が違うのである。それを試すのには「スルメイカ」や「ホタテガイ」の刺身が手頃である。どちらが上等かではなく、好き好きではあるが、口当たりがまるで違うから面白い。
 繊維にそうに切れば歯ごたえがあり、繊維を断つとやわらかく仕上がる。また、火の通りをよくしたいときには、繊維を断つように切るとよい。

 つぎに「六本」だが、中国語で大根を意味する「蘿蔔(ロポ)」に由来する。
江戸時代には「蘿蔔」という呼称はすたれ、「大根」と呼ばれていたが、室町時代ころまでは「大根」と「蘿蔔」は併用して使われていた。
 ついでではあるが、「大根」という名詞は、純粋な和製漢語であり、中国語圏では通用しない。

 すなわち、「千六本」は「繊・蘿蔔(シェン・ロポ)」であり、大根の繊維にそって細く切った調理法を意味した。

 大根の切り方といえば、タクワンの切り方で「関東風」と「関西風」がある。
 丸く横に輪切りにするのが「関東風」であり、拍子木のように縦に棒状に切るのが「関西風」である。この習俗の歴史については別の機会とする。


午前午後

  一日の時刻を表すのに「午前・午後」という言葉があり、「正午」の前か後ろかを意味する。
 「正午」の「午」は「午の刻:うまのこく」のことで、十二支の七番目を指し、「正午=午の正刻」は真昼のことである。 英語でいうとmidday、ラテン語ではmeridiem。その前(ante)はam、その後(post)はpm,となる。
 このような使われ方は、誰でも知っており、しかも紀元前から日常的な言葉として使われてきた形跡がある。

 問題は、十二支のことである。「正午」はいいとして「正子:子の正刻」を「真夜中の十二時」を意味する言葉として知っている人は少ない。

 時刻の呼び方で現在にも残されているのに、「丑三つ時」がある。
 古代中国で、一日の時刻を二時間単位に分割して、それに十二支を割り振った。
 十二支は「子」から始まるのであるから、真夜中の0時を「子の正刻」とし、その前後の二時間が「子の刻」となる。二時間をさらに四等分して「一刻・二刻・三刻・四刻」または「一つ時・二つ時・三つ時・四つ時」といった。
 「子」の次が「丑」で、「丑の刻」を四等分すると
    …丑一刻・丑一つ時:1時〜1時30分
    …丑二刻・丑二つ時:1時30分〜2時
    …丑三刻・丑三つ時:2時〜2時30分
    …丑四刻・丑四つ時:2時30分〜3時 
 丑の正刻は二時で、三つ時は正刻と同じ時間帯となる。


 十二支は、時刻だけではなく、方角を示すものとして使われた。この用法の方が古かったと思える。北極点へ向かう方角を「子」とし十二等分した。
 この連続する区分法は、「東西南北」といわず「東南西北」という言い方が中国では一般的だったことに受け継がれている。
 さらに、南極点と北極点を結ぶ大円として「子午線(しごせん、meridian)」が想定され、古代中国の天文学は今に到る成果を残した。
 兵庫県明石市は「子午線のまち」と呼ばれ、「明石子午線郵便局」が誕生した。
 また、この子午線上にある西脇市は「日本のへそ」をアピールする。

 天文学でいう十二支は、抽象的な概念に過ぎなかったのだが、別に発生していた『十二禽』伝説が持ち込まれ、「子=鼠」のように動物と習合した。

 (十二支)(十二禽)(時刻) (方角)
  子   鼠   23時–1時
  丑   牛    1時–3時 北東微北  
    寅   虎      3時–5時 北東微南
    卯   兎      5時–7時
    辰   龍      7時–9時 南東微北
    巳   蛇     9時–11時 南東微南
    午   馬    11時–13時
    未   羊    13時–15時 南西微南
    申   猿    15時–17時 南西微北
    酉   鶏    17時–19時 西
    戌   犬    19時–21時 北西微南
    亥   猪    21時–23時    北西微北

 この原形は、湖北省雲夢県の睡虎地秦墓から1975年に発見された竹簡(睡虎地秦簡)のうち卜占に関する『日書』の部分に十二生肖の記述が見つかり、紀元前200年代の秦の時代には既に成立していたことが分かった。
『日書』には次のようにある。
「子、鼠也。…丑、牛也。…寅、虎也。…卯、兔也。…辰、(原文脱落)。…巳、蟲也。…午、鹿也。…未、馬也。…申、環也。…酉、水也。…戌、老羊也。…亥、豕也」
 その後変容して現在の日本型になった。「亥を猪」とするのは日本だけであって、中国系社会では「豚」を指す。猪を家畜化したのが豚だといえば、それまでである。

 十二支の中でも、「子=鼠=北」は数多くの物語があり、生活の場に習俗として残されてきた。仏教における「北の守護神・毘沙門天」、記紀神話における「大国主尊」、七福神における「大黒天」などに見られる「神の使い」としてだけではなく、鼠自体が福の神として「鼠の嫁入り」「おむすびころりん」などの昔話として語り継がれてきた。

 鼠を「よめ」と読む珍しい地名がある。
 富山市八尾町(やつおまち)鼠谷は「よめだに」と読む。これは「鼠の嫁入り」の昔話に由来するのか。
 同じ「鼠谷」でも,宮城県黒川郡大和町鶴巣北目大崎字鼠谷は「ねずみや」と読む。


 「午前・午後」や「子午線」の「午」から程遠いにそれてしまったが、今の日本では十二支といえば「ねずみ」から始まる「年」を指すものだけのようになってしまった。
 この傾向は明治以降に強くなったもので、「何年生まれ」は日常会話の中でも頻繁に使われている。
 これは仄聞だが、十二支をなぞった「何年生まれ」という表現は、中央アジアの少数民族にもまだ残されているという。


木目(もくめ)

 木目は「モクメ」

 「木目」を正しく「モクメ」と読める人が少なくなった。
 むしろ、今では死語となったのかもしれない。
 そのくせに、家具や調度品に「木目調」と称するデザインにこだわる人々もいる。

 木目には、「板目」「柾目」「杢目」の三種の違いがあるのだが、その違いを理解している人は滅多にお目にかかれない。
 家にせよ家具にせよ、むくの木材を使う文化は、すでに滅びているからである。
 それは、林業の破壊であり、山の文化の否定でもある。

 ここで書きたいのは「林業」のことではない。
 木が持っている「ささやかな楽しみ方」で、その面白さのことである。

 東日本大震災からあと数日で三年になる。
 震災直後、『東北かけはしプロジェクト』の支援で、檜の間伐材から作られたコースターが、ある商品のノベルティとして配られた。
 小さなもので、板目に切られた破片に過ぎない。表面にはまだ大鋸屑が残ったままであった。それを乾拭きしながら、震災の悲惨さを報道で追いかけていた。
 ノベルティを手に入れた翌日、もっと欲しいと思って売り場へ行ったのだが、もう既に売り切れていた。ほっとしたというより、残念だった。
 
 それから三年、乾拭きを繰り返すうちに、コースターの表面は軽い漆を塗ったように落ち着いた艶を出すようになった。
 今では、水気をはじき出すほどのものになっている。ようやくコースターとしての完成品である。
 木が持っている脂肪分が表面を覆ったのであり、その生命力が力強く残っていたからであろう。 
 檜に限らず、間伐材としての評価も受けずに倒れた木がまだ残っているのであろう。
 この楽しみ方を教えてくれたことを感謝する。と同時に有料でいいから、このような素材をもっと広く提供して欲しいと思っている。

 古い寺院を訪ねると「磨き抜かれた板の廊下」に見とれることがある。そして、心の安らぎを感じるのだが、その文化への「かけはし」となってもらいたいものである。


指金(さしがね)


 「これは誰の指金だ」とういう。
 「命令・指示した責任者は誰か」という意味で使われる。
 しかし、「金」の由来については忘れられ、「指図」と「金」ではなく「図」と表記されることもある。

 「指金」の「金」は、かつて大工が寸法を測る際に「曲尺」を使用していたことに由来した。今でも使われる定規の一つで、木や竹などではなく「金属製」である。
 「曲尺」は直角を正確に測定することが重要で、狂いの少ない金属が使われた。
 そのため「曲尺」と書いて「かねじゃく」と読んだ。


 問題は、大工が設定する長さの単位である。
 《一尺》は現在では「曲尺」で用いられた長さを採用し、約30.303mmとされるが、一定ではなかった。「曲尺」の他に「鯨尺」「呉服尺」などがあり、「鯨尺」は約37.879 mmもあった。

 更に、《一間》という単位も時代によって大きく変化し、現在でも混乱が残っている。 もともと「間」は柱と柱の間のことで、長さを表す単位ではなかった。
 「四間三面の古代建築」という表現があるが、これは「柱が四本あり、三つの面」で造られていることだけを意味するのであって、柱と柱の間(すなわち面)の長さを表す単位ではない。
 それが大工用語で長さの単位として使われるようになってからでも、「6尺5寸」と「6尺3寸」などがあり、江戸時代に「6尺」となり、度量衡改正により1.818mとされた。
 それでも住宅建設では、京間(きょうま)1間=6尺5寸(曲尺)と江戸間(えどま)1間=6尺(曲尺)が併用された時代が続いた。
 住宅の設計図に「一間」と書いても、その基準が違っていたのでは家は作れない。
 「これは誰の指金か」と確認するのが重要なこととなる。
 指金をするのは「大工の棟梁」であり、最高責任者であった。
 「これはだれの指金だ」とは「棟梁は誰か」ということで、それを確認することでようやく長さの基準が明確になり、木材などの切り出しが始まるのである。

 『間尺(ましゃく)に合わない』という言葉がある。
 家具や建具寸法の割り出し方で、「うまい寸法割りができない」ということであった。 肝心の基準値が違っていたのでは組み立てることはできない、間違った方のものは工賃だけではなく材料費を含めて大損になった。
 今は「割に合わない。損になる。」などの意味で使われることもある。
 これも「指金」の取り違いからでた言葉である。

 新しく出来た歌舞伎座の楽屋が、みなメートル法で作られていて、役者衆の楽屋のれんが寸足らずになって落ち着かないという話を聞いた。
 メートル法は現代建築の基本であるから良いとしても、前の歌舞伎座は江戸間の基準から作られ、のれんはそれに合うように採寸された。
 その時代ののれんには、著名な画家のものもある。作り直すこともできず、なんとなく落ち着かない気分だという。
 たかが寸法のことといっても、そこには文化の奥深さがある。

 話は変わるが、大工の世界よりひどいものがある。「検地」のことである。
 土地測量における「一間」の変更は、為政者の税対策の権威として取り入れられた。
 室町の末期には、1間は6尺5寸が一般的であったらしい。
 「太閤検地」では、1間は6尺3寸とされ、1歩は6尺3寸四方、1段は300歩と定められた。 10段で1町歩であるから、1町が約22%も縮んだことになる。
 収穫高(石高)に対する年貢収納率が同じであれば、年貢が高くなる実質増税が行われた訳である。現代風に言えば、同じ1ヘクタールの面積の固定資産税が、22%増額になったようなものである。 
 なお、桝も太閤検地の「京桝」から、1升に対して1%程度小さい「江戸桝」が採用されている。
 江戸時代になってからも検地が行われ、一間は6尺1寸になった。再度、実質的な増税措置がとられた。
 その上、各藩によりバラバラで、6尺3寸から5尺8寸まであったという。

 度量衡の原単位を決めてきたのは、時の為政者の権威であった。それを基準として習俗や文化などが形成されてきた。現在では「世界基準」が設定されているが、生活のどこかにまだ「地方基準」の残滓がある。

おかず(或いは「おばんさい」)


 「今晩のオカズは何?」という。
 「料理」といわず、何故「オカズ」というのか。これは「女房ことば」に起源があり、「食事に出された料理の数々」のことの意である。
 御菜と書き、ご飯や酒の周りに「数々」取り揃えられたことから「オカズ」となった。 これが定説のようである。
 安土桃山時代に作られた『日葡辞書』には載っているから古い言葉である。
 「おかず」は、「おめぐり」「おまわり」「おあわせ」などともいわれ、ともに「女房ことば」の残存である。
 庶民は飯に副えるものとして「菜(さい)」と呼んだ。

 江戸期の国文学者・本居宣長は、『玉勝間』巻14に次のように書いている。
 「いはゆる菜をば、昔はあはせといへり、清少納言枕冊子などに見ゆ、又伊勢神宮の書に、まはりとあるは、伊勢の言歟、此国の今も山里人など、まはりといふ所あり。
 御湯殿上日記云、慶長三年五月四日、じゆこうの御かたより、御そへおかずとて、御まな參ると見えたるは、今も婦女のいふおかずなるべし、數々あるをいへる歟、又かずはかづにて和の義にや。」
 江戸時代の庶民は「オカズ」とはいわなかった。「女房」とは身分が違っていたからである。

 嘉永2年(1849)に出版された『年中番菜録』(『江戸時代料理本集成』第10巻・臨川書店所収)では、家庭で食べる副菜を、関東では「そう菜」、関西では「雑用(ぞうよう)」といったと書いている。
 どちらも「おそうざい」「おぞよ」として今も使われている。
 『年中番菜録』は、当時の大阪の名料理人が各地の民家で作られている料理を集めたもので、「家庭料理指南書」として好評だった。料亭の料理書ではない。
 その序文の附言では、出版の意図を次のように書いている。

 「番菜は日用のことなれば、いまだ世帯なれざる新婦はさらなり、年たけたる女房・まかないの女といへども、折ふしさしつまることあり。
 此書はただありふれたる献立をあげ、珍しき料理または値とふとく(高価で)、番菜になりがたき品は一切取らず、ふと思案に出かぬる時のたよりを旨とすれば、常々手まわりに置き、番菜の種本と心得たまふべし。」

 すでに「番菜」という言葉が使われていた。だが、「番菜」の「番」については触れていないので、なにを意味するのか諸説がある。
 「お晩菜」と夕食に当てるもの、「番茶・番傘」などに使われるように「粗末な」を指すというものがある。どちらも違っているのではないだろうか。
 『年中番菜録』は、四季折々の素材をそれぞれに分けて並べてあり、その旬を味わうことに気をくばっている。そして「年中」とは有職故事でいう「年中行事」をもじったものであり、「式次第、すなわち順番」を意味したと思える。

 「おぞよ」の起源については、不明なので取り敢えず省略する。

 「おそうざい」は、今では家庭料理というより「お惣菜屋」となり商業化され、さらに洋風料理を含め「デリカ」などとも呼ばれるようになった。
 一方で「雑用」は、「京都の家庭料理・おばんさい」として、全国的に有名になった。
 辞書を引くと
 「おばんざい(お番菜、お晩菜、お万菜)とは、昔より京都の一般家庭で作られてきた惣菜の意味で使われる言葉である。京都の伝統料理でも、家庭料理として作られるものを指す。」という。
 昔とは何時のことか。これが問題である。
 代々長く京都に住んでいた人の話なのだが、
 『辞書には「おばんざい」とは普段、家でいただく京都のおかずのこととある。西陣あたりで幼少期を過ごした大正生まれの祖母は、「おかずのことは〝おまわり〞というてたえ。これはもともとお公家さん言葉。主食ごはんの〝周り〞にぐるりと〝おかず〞を並べて食べたはったからやなぁ」
 年配の京都人に聞いてみると「おばんざい」ではなく、この「おまわり」、そして「おぞよ」を使う人のほうが多かった。「おぞよ」というのは〝御雑用〞と書き、当座しのぎになるおかずのこと。お豆さん、おからの炊いたん、それにすっかり京名物になったちりめん山椒などがそれ。おかずが仕込めない日々を見込んで、〝なんぞおぞよでも炊いとこか〞と使っていたと祖母は懐かしそうに目を細める。このおまわりとおぞよをまとめて「おばんざい」というらしい。』とある。

 実は、「おばんさい」なる言葉は、古いものではなく、戦後に流布した言葉である。
 1964年から翌年にかけて、朝日新聞/京都版コラムに「おばんざい」と表題されたエッセイが連載された。
 随筆家・大村しげさんら「京おんな3人組」が、京都の庶民家庭に伝承された「生活の智慧」を食を通じて伝えたかったらしく、その命名の背景に『年中番菜録』があったという。それが好評だったため単行本として出版され、マスコミに乗って全国に広まった、
 その経緯については、『大村しげと「おばんさい」』(藤井龍彦 国立民族学博物館調査報告書68・2007年)に詳細な報告がある。

 大村しげたちが伝えたかったのは「生活の智慧」であって、それを伝承する世代の糸が切れかかっていることへの警笛でもあった。
 だが、「おばんさい」は、料亭とはいわないものの「小料理屋」の看板として使われる時代になっている。「おばんさい」も商業化された。
 京都を旅し、「おばんさい屋」で食事をするのが今風なのである。
 これを「伝統を知らない恥」とする京都の老舗がある。そうではない。京都文化は伝統・伝説・伝承などを巧みに利用し活性化して続いてきたのである。


大根


 「大根」と書いて「ダイコン」と読むようになったのは、江戸時代からであろう。
 大根がわが国に渡来した歴史を考えると、比較的新しい読み方といえる。
 それまでは「おおね」と発音するのが一般的で、飛鳥時代には「淤富泥」(おおね)とも表記された。
 
 その名残が、『古事記』『日本書紀』に収録されている仁徳天皇の歌に見ることが出来る。
  つぎねふ 山代女の木鍬持ち 打ちし淤富泥(おおね)
    根白の白腕(しろただむき) 枕(ま)かずばこそ 知らずとも言わめ
 仁徳天皇が皇后の留守中に、その妹と浮気したことがばれて、皇后は天皇のもとへ帰ろうとしなかった。
 仁徳天皇は、「おおね(大根)のように白い、あなたの腕を枕にして愛し合ったことを忘れはしないだろう」と、皇后へ恋歌を送った。

 奈良時代の悲劇の皇子・長屋王の邸跡から、大量の木簡が発掘された。その中に「大根60本」と書かれた荷札のようなものが出土している。これも「おおね」と読まれた。
 同時代の戸籍帳に、「大根売」「小根売」と書かれた人名が残されている。
 戸主を筆頭にして、その一類を表記したもので、年齢と性別が記されている。男にはそれらしい名があるが、女には「大根売」「小根売」と書かれていることが多い。
 「大根売」は(おおねめ)、「小根売」は(こねめ)と読まれたのであろう。
 今風にいえば「どこそこのダイコンちゃん」というような愛称だったのかもしれない。 現在の柴又地区の古文書が残され、そこには「大根売」「小根売」とともに、「寅」「さくら」という名が見える。「柴又の寅さん」の歴史はこのように古い。

 平安時代中期、927年(延長5年)に完成した律令の施行細則である『延喜式』には、
 「蘿菔(ラフ・ラフク)」「蘿蔔(ロポ)」として記載されている。
 『内膳司』(延喜式巻39)には「蘿蔔、味醤漬苽、糟漬苽、鹿完、猪完、押鮎、煮塩鮎、瓷盤七口。高案一脚。 右 従元日、于三日。供之。」とあり、正月三が日のお供え物として使われた。
 蘿蔔が「鏡草」として後世まで伝えられた起源はここにある。

 しかし、「蘿蔔」という表記より「大根」と書き、(おおね)と読むのが長かったようで、『徒然草』では「土大根」と書き(つちおおね)と読ませている。ここでは大根を焼いて食べた。
 また、『蜻蛉日記』安和元年(968)九月、長谷寺参詣の条には次のように書かれている。
 「旅籠どころとおぼしきかたより、切り大根、柚の汁してあへしらひて、まづ出したり。」
 これも(おおね)と読む。しかも、今でも食べられている「柚大根」がすでに登場しているのが面白い。

 大根が渡来してからほぼ千年の間、どのように食べられたのか、その記録は殆どない。 
 庶民の間に「大根料理」が定着したのは、江戸初期ではないかと思われるが、それも料理本や栽培方法を書いた農書などの文献が多く残されているからに過ぎない。
 『享保・元文 諸国産物帳集成』(1735-39)によると、全国に163種の大根があったという。同じものが呼び方を変えて使われていたと考えられるが、多様な品種があったのは事実である。
 それらをどのように料理するか、それは料理人の腕の見せ所で、『諸国名産大根料理秘伝抄』などの料理本が風靡した。
 同時に、「蘿蔔」(ロポ)も使われたが、「大根」を漢音で(ダイコン)と読むのが一般化した。
 
 今「千六本」という名に「蘿蔔」の残滓がある。「繊蘿蔔」(センロポ)、すなわち「繊に切った蘿蔔」であり、繊維に添って細切りにした大根のことである。
 江戸時代の川柳に、「五百三本に切る下女」というのがある。
 包丁が下手で、大根を細く切れないのを揶揄したものである。

 「蘿蔔」の表記は、中国料理に現在でも引き継がれ、特に正月の「蘿蔔餅」は欠かせないものようで、その作り方には地方により、家により様々であるという。
 邱永漢の『食は広州に在り』には、そのこだわりぶりが楽しく綴られている。

磐石

 今年こそは「磐石の構え」で備えたい。
 そのつもりでいても、イザという時に困惑するのが世の習い。『磐石の備え」は難しい。
  「磐石」が、その上に作られた物を、微動だにもせず支える姿には安心感がある。「砂上」では、何時崩れるか不安でこのような訳にはいかない。
 
 「磐石」(ばんじゃく)とは、 1 重く大きな石。いわお。2 堅固でしっかりしていてびくともしないこと。
 として使われるのだが、その由来には諸説がある。
 
  その一つに次のような説がある。
  「磐石」とは、不動明王が座している、その土台の事で、金剛石とされているのでダイヤモンドの原石である。
 「不動明王」が「憤怒相」「降魔の三鈷剣」「羂索(けんじゃく)」「迦楼羅焔」を以て、衆生を救わんとするその意志の固さを現している。 転じて、磐石とは何者にも害されない強さを持った土台の事。
 
 ここでは、不動明王の土台としているが、宮殿や神社の建設礎石(心礎)として奈良時代から使われてきた土台:下つ磐根(しもついわね)に由来するものと見るのが妥当であろう。
 「下つ磐根に大宮柱太敷き立てて‐‐‐」という祝詞がある。「磐石」を土台として、その上に宮殿を壮大に築く意味の慣用句としてよく使われてきた。
 この伝統は、伊勢神宮の遷宮式にも引き継がれ、現在でも二十年ごとの儀式として「御柱祭り」の中でも重要な位置を占めている。
 
 伊勢神宮では、「岩根」というが、仏教の「金剛輪(地輪)」を 示し、「天長地久の宝座」であるという。
 「常盤(ときわ)堅 盤(かきわ)に動かない心御柱」の不動性と永遠性を祈願した。
 さらに、龍神などが台座の守護神として勧請された。
 中世に成立した「伊勢神道書」では、「心御柱」は「国生みの際に現れた独鈷」を型どったものであり、それが不動明王として現れたことがあるともいう。
  「磐石」には、不動明王以前の歴史が隠されているのである。
 
 「不動の磐」に対する信仰は、わが国の基層意識であって、「君が代」にもその痕跡がある。
 「君が代は、‐‐‐‐さざれ石の巖となりて、苔のむすまで」
  このように 「磐石」の不動性と永遠性が語り継がれている。
  



諸国

 「諸国」が、「世界の国々」をさすようになったのは近代に入ってからのことである。 

 わが国では、律令国家成立以来幕末まで「諸国」といえば、「陸奥国・出羽国・武蔵国・相模国・ 山城国ーー」のように、地方を総称する言葉であった。

 特に江戸期には、諸国の大名が江戸在勤を命じられ、所領の藩へ戻ることを「国元へ帰る」といった。 米沢・上杉藩の名君、鷹山が書き残した『伝国の辞』には次のように「国」を表現している。 

 一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして 我私すべき物にはこれ無く候  

 一、人民は国家に属したる人民にして 我私すべき物にはこれ無く候   

 一、国家人民の為に立たる君にて 君の為に立たる国家人民にはこれ無く候  

 ここに書かれた「国」とは、「上杉藩」のことであり、日本国全体を意味するものではなかった。

 江戸時代、八代将軍・吉宗の頃作製された『諸国産物帳』という膨大な記録があった。各藩や寺社領に命じ、その国(領地)の産物をすべて書き上げたもので、動植物を初め鉱物などを含めた「産物全書」といってもよい。しかし、この記録は散逸してしまい一括して保存されることはなかった。 その存在と重要性に注目されたのは、大戦後の1950年以降である。

 『江戸諸国産物帳ー丹羽正伯の人と仕事ー』安田健著(晶文社、1987)によると、1737年から翌年にかけて、全国の記録が編纂責任者である丹羽正伯の元へ届けられたという。「本帳」「絵図帳」「注書」のセットで構成された「○○国物産帳」は、ゆうに千冊を超していたと推定されている。 散逸した記録の復元を目指したのが、丹羽健を中心とする農業史研究者たちで、その苦労話がこの著作である。 克明に描かれた「絵図」を含め、詳細に動植物を網羅した記録は、当時としては世界に類を見なかった物としてだけではなく、現在にも通用するものであるという。

 江戸期、特に元禄から享保の頃、町人の意識が地方に向けられ、「諸国物」が出版された。旅への憧れを伴っていたのであろう。 芭蕉の『奥の細道』にはこのような背景があり、さらにその旅をなぞる町民の旅日記が風靡した。

  「国」「国家」とは何かを書きたかったのであるが、方向が違ったようである。

 

 

 

 

 


お化け暦


 「お化け暦」とは、明治六年以降昭和二十年まで、民間で違法に発行された暦のことをいう。
 1873年(明治6年)の太陽暦採用以後、政府が発行する官暦である本暦では、一切の迷信的な暦注を掲載しなくなり、明治末年には旧暦の記載も中止された。
 
 旧暦は、農作物の播種や管理の目安とされ、農業指導書のような役割をもっていたのであるが、迷信的な歴注とともに切り捨てられた。
 しかし、一般庶民の間では、それまで慣れ親しんできた吉凶付きの暦注や旧暦に対する要求が高かった。
 そこで、吉凶判断などを記載した偽暦(ぎれき)が、官憲の追及を逃れて神出鬼没的に多数出版され、従来の暦にあった暦注のほか、六曜、三隣亡、九星などの、それまで暦に掲載されたことのない暦注が記載されるようになった。
 現在のカレンダーに残る「六曜」は、その名残であって、発生は江戸時代以前に遡るものではない。

 当時は暦の発行と頒布は、政府が厳重に管理しており、誰でも勝手に作れる物ではなかった。ところが政府が禁止した暦注を書き込む訳だから、そのような暦を政府が許可する訳がない。
 となれば残る手は一つ、官憲の目を逃れてこっそりと非合法の暦を出すしかない。
 「旧暦」に対する庶民の要求は強く大きな需要がある。造れば売れること間違いない。 「おばけ暦」は改暦以前に刊行された「略暦」という比較的簡便な暦の体裁を真似て作られたようである。発行者の欄には、「大阪市西区新町 福永嘉兵衛」と縁起のよさそうな名前があるが、もちろんこの発行元は架空のもので実在しない。
 しかし、版元は「暦」という名ではなく、『農家便覧』と名を変え農業指導書の体裁にしたり、『九星六曜吉凶表』『九星便』などいう陰陽道の解説書の形をとり出版した。
 これらは、年末の贈り物として重宝され、全国的な規模で頒布された。
 明治から大正、そして昭和初期に至るまで、中には真面目な「農業指導書」として発行されたものもあるとはいえ、「お化け暦」は格式ある寺社の財政を支えてきた。
 ちなみに、現在発行されている『高島歴』は、毎年120万部を越す隠れたベストセラーである。

 太平洋戦争が終わった1945年(昭和20年)以降、暦類は一般の出版物と同じように自由に編集出版が行えるようになり、「お化け暦」はなくなった


 小池淳一氏(国営津歴史民俗博物館助教授・民俗学)の著書『お化け暦の歴史』は、具体的に詳細な資料を踏まえた好著作である。
 その「あとがき」に次のように書いている。 
 「“お化け”は所詮、消えていくものであるにしても、近代民衆生活史に果たした役割は決して小さいものではない。
 特に、暦や暦注に起因する、あるいはそうした知識を前提として成立する俗信や習俗の生成を考える場合には大きな手がかりになるものといえるだろう。
 「暦の民俗」が生まれ、成長していく過程を考えるための重要な資料の一つということができるのではないだろうか。」

 「お化け暦」はなくなったが、そこから生まれた俗信と習俗は、今も残され消えることはない。
 
 


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