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縁起をかつぐ


  「縁起」は、良いこと・悪いことが起きる前兆を示す意味で使われることが多い。
 「縁起が良ければ」それで良し。周りの人々に「縁起物」を配ることもある。 
 「縁起が悪ければ」お祓いをして、「縁起直し」をする。
 だが、何故「かつぐ」のであろうか。
 その原景は、吉凶を占う際やお祓いの時に、占いを行う巫などが「御幣」を担いだことに起因すると思える。
 
  そもそも「縁起」には、吉凶を占い、予言する意味はなかった。
 仏教の根幹をなす思想の一つ「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、「因」は結果を生じさせる直接の原因、「縁」はそれを助ける外的な条件のことである。
 世界の一切は「因」と「縁」が、直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指している。

 「因縁生起」が、「因縁」と「縁起」に分解されて、仏教本来の意味とは遠くかけ離れて使われてきた。
 「因縁」の場合は、「因縁をつける」などの言葉として残され、無残な姿になった。
 「縁起」は、まだ運が良かった。
 古代から中世にかけて、数多くの「寺社縁起」が作成された。
 社寺の創建や、その祭神・本尊の造像に関する由来・霊験譚などの伝承説話を題材として描いたもので、ここでは「故事来歴」の意味で用いられている。
 文章としてだけではなく、華麗な絵巻物として残され、『石山寺縁起絵巻』『信貴山縁起絵巻』『清水寺縁起絵巻』などの重要文化財がある。
 
 しかし、「寺社縁起」は、歴史資料として書かれたものではない。その寺社の霊験がいかにあらたかなのかを宣伝するのが主眼であった。
 無病息災を祈り、豊かな現世を過ごすために、人々は寺社参りをしたのであって、特に神仏の降誕・示現・誓願などの縁(ゆかり)のある日を選んで「縁日」とし、この日に参詣すると、普段以上の御利益があると信じられた。
 神仏に「結縁(けちえん)」し、その加護を祈願したのである。

 災難から身を守ること、それはいつの世であれ庶民の願いである。
 自分で意識できない「因縁」により、災難が起きるのであれば、それを事前に感知し、避けることができれば幸いである。
 占いや陰陽道などが活躍するのはこの場面である。そして、それは様々な形を通じて習俗化してきた。
 現在も行われている「元日参り」「神社のお祓い」「厄年祈願」「おみくじ」などはその名残であり、さらに西洋式吉凶占いが蔓延している。

 「縁起をかつぐ」ことは、庶民のか弱い望みであり、楽しみでもある。
 それが習俗となり、長く維持されてきた背景である。
 その度が過ぎなければ、神仏任せの「他力本願」などと肩肘を張って云々するほどのものではない。
 

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