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月とすっぽん(雲泥の差)

       月とすっぽん

 少しは似ていても、実際には甚だ異なっている様を云う。
 「比較にならない。まるで月とすっぽんだ」などと使う。

 江戸後期の国学者で風俗研究家の喜多村筠庭 [いんてい](1783~1856 )の『嬉遊笑覧』に「月は丸きものなれど、丸と呼ぶスッポンとはいたく異なるなり。」とある。

 亀の甲羅は、どちらかといえば「六角形」をしており、亀甲紋はその形をとる。
 これに対してすっぽんは、より「丸い形」で表面はなめらかである。そのため漢字では「団魚」と書くことがある。
 江戸時代には「まる」と呼ばれたりするほど、「丸い」生き物の代名詞であった。
 また、江戸時代の「いろは歌留多」の「つ」は、「月とすっぽん」である。
 「すっぽん」ではなく「朱盆(しゅぼん)・朱塗りの丸盆」だったとする説がある。
 幕末の役者評判記『鳴久者評判記』ではそのように書いている。
 だが、これは舞台での効果を狙ったもので、洒落だったのではないだろうか。

 似た言葉に「雲泥の差」というのがある。
 雲は天、泥は地で、天と地ほど大きな差があるという意味。

 白氏文集に『傷友』(友を傷む)と題する詩がある。
 「昔年洛陽の社。貧賎にして相提携し、今日長安の道、対面雲泥を隔つ」
 この詩は、地方に流されて赴任した同僚が貧相な姿で戻ってきた時のもので、役人の悲哀を描いている。中央に残ったものと地方に左遷されたものとでは、その処遇に「雲泥の差」があり、くたびれ果てた旧友に「これも世の習い、あなただけのことではない」と慰める詩である。
 
 『後漢書』矯慎伝(5世紀の書)に、「雲に乗り泥を行きて棲宿同じからずといえども…」とあり「雲泥万里」が出てくる。
 この言葉は『太平記・巻39』に、「古賢の世を治めん為に二君に仕へしと、今の人の欲を先として降人に成るとは、雲泥万里の隔(へだて)其の中に有り」と使われている。

 江戸時代の滑稽本・浮世風呂には「おらがわけい時代の行作とは、雲泥万里のちげえだあ」(おれの若い頃の行いとは、雲泥万里の違いだ)と出てくる。
 漢字で「雲泥万里」と記され「うってんばってん」とルビが振られている。
 この「うってんばってん」は、今も秩父の方言として使われているという。

「雲の上」と「泥の中」。それが「月」になり「すっぽん」になった経緯は不明。
 江戸時代に、すっぽんは「丸」として通用するほど普及したその名残かもしれない。


 ちなみに英語には次のような表現がある。
  as like as an apple to an oyster.
  different as night and day,
 「夜と昼の違い」は単純だが、「りんごと牡蠣」は「月とすっぽん」に発想が近い。
 特に「りんご」は、アダムとイブの天上の果実を思わせる。
 
 
月とスッポンと日本語―究極の蘊蓄語録

月とスッポンと日本語―究極の蘊蓄語録

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お元気ですか(その由来)

 「お元気ですか」 「お元気で」などと、日常的によく使われる。
 その頻度は日常語の中ではトップクラスであろう。
 「元気」は「病気」と対になって使われることもあるが、「元気はつらつ」などのように、「生命力が旺盛であり、気分が上向きである」等、精神の状態を表すことが多い。

 しかし、その由来については諸説乱立しているようだ。
 例えば「平安時代の『今昔物語』のなかに出てくる減気(げんき)」で、悪い「気」が減るから、健康に向かうという説がある。
 また、江戸時代になると、 「験気(けんき)」という言葉が現れ、それが「元気(げんき)」と書かれるようになったという説もある。だが「験」は「験を担ぐ」などと使われるように、修験などの影響による解釈で、「元気の語源」とするには疑問である。

 『日本国語大辞典』では、
 「天地間に広がり、万物が生まれ育つ根本となる精気」と説明している。
 これは、古代中国の『漢書・律歴志』に見られる考え方で「万物を産み育てる気」を「元気(気の元)といった。
 また、道教や儒教においては、不動の太極(北極星信仰)に呼応する概念であった。

 空海の『遍照発揮性霊集』(へんじょうほっきしょうりょうしゅう)に次のような言葉が収められている。。

 「元気しゅく動して、葦牙(ろげ)たちまち驚く」

 万物を産み育てる気が、あたり一面に充満し動き出し、葦の芽がたちまち伸び始めた。 なお、「葦」は神仏の依代(よりしろ)として伝承され、「片葉の葦」としてその信仰は今に伝えられている。

 「穎栴(えいせん)」という言葉がある。
 植物の新芽(特に稲)が生えだした状態が、栴檀のように輝いていることを指す。
 このような状態になると、夜でもわずかな明かりに白く輝いて見え、生命が宿っていることを感じる。
 「命の力」、それが「元気」である。

 日常的に使う「お元気ですか」という言葉の裏には、「お体の具合はどうですか。病気ではありませんか」という意味がある。
 しかし、単なる身体的なことではなく、精神的にも「命の力がありますか」という言葉として解釈するなら、なかなか良い言葉である。
 そう、挨拶で使われる「元気」とは、「気力」であり、精神のあり方なのである。
 
 「気の元」の「気」はなにを指すか。
 その概念は、神話世界、宗教世界に根源がある。
 それを日常の挨拶用語として使われた習俗をたどりたいのだが、一向に手がかりがつかめない。
 この好奇心も、「命の力」のほんにささやかな一部であろう。
 
 
 
合本 挨拶はたいへんだ (朝日文庫)

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芋名月・豆名月


 旧暦八月十五日の満月を「中秋の名月」という。別に「芋名月」と呼ばれ、秋の豊穣を祝った。その名残が「月見団子」である。
 今年(2013年)の「中秋の名月」は、9月19日(木曜日)で、20時13分に起こるとされる。
 一昨年と昨年に続いて3年連続で満月となる「中秋の名月」で、次は2021年まで満月にはならず、少し欠けた名月となる。
 これは、暦を作成する手法によるもので、一日前後ずれることがある。
 
 「芋名月」とい呼び方が、何時からのものか定かではないのだが、平安時代から宮廷を中心にして行われた「月見の宴」が、秋の豊穣を祝う農耕儀礼の中に組み込まれて習俗化したのは江戸期ではないかと思われる。
 江戸時代末(安政年間、1860~1866年)に書かれた『浪花の風』によれば、
  「・・・芋を賞玩す。故に十五夜の月を称して芋名月といふ。
   十三夜には・・・うで豆一式を多く調べ置いて・・・これを食わしむ。
   故に十三夜の月を市中にて豆名月といふ。」

 旧暦八月十五夜の月を「中秋の名月」というのに対して、翌月は「後(のち)の月」と呼び、旧暦九月十三日「十三夜の月」を祝った。
 これは日本独自の風習といわれ、ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を「豆名月」または「栗名月」と呼ぶ。
 なお、今年(2013年)の十三夜は10月17日(木)となる。

 江戸末期、浪速では「うで豆」を晩秋に食べたという。干した大豆のことではない。
 江戸の「うで豆」は「枝豆」として「夏の風物」であり、まだ完熟していない豆を枝に葉をつけたまま茹でて、街中を売り歩いた。晩秋に「枝豆」を食べるのは野暮で、江戸の「初物好き」の典型的な例の一つである。

 このように、「芋名月」の次に「豆名月」となるのが、全国的な習慣である。
 しかし、これが逆転している地方がある。
 山形県全域、秋田県角館市、新潟県下越地方などでは、「中秋の名月」を「豆名月」とし、「後の月」を「芋名月」「栗名月」とする。

 最近では、この「豆名月」(9月15日)「栗名月」(10月13日)を地域イベントとして復活させようと、山形県最上町の赤倉温泉郷が動き出した。
 【豆名月(十五夜)・栗名月(十三夜)の夜に、「豆(栗)っこ煮たかわ?」と声をかけながら家々を巡り枝豆や栗、お菓子などを貰い歩くというものです。
 いわば、和製ハロウィンです。
 この栗名月の夜には、これまた赤倉温泉の新名物”オリジナル手提げ袋”を持って … お菓子やら栗やらお小遣いやらを … キャピキャピ貰って歩きましょう~!?そして、とても素敵な晩秋の文化行事を … 満喫してくれたまえ、皆の衆~!】
 と呼びかけている。
 月を観賞するだけでなく、それにともなった習俗を含めているのが面白い。子供たちのこのような習俗は、ほかにも様々な儀式のなかで見ることができる。

 「芋」と「豆」どちらだ先か。 
 何故このような逆転現象が起きたのか。その由来を語るものは殆どない。 それなら、収穫時期と品種の差によるのかもしれない。
 この逆転された地域では、「枝豆」や「里芋」にことのほか凝った伝統がある。
 
 まず「豆」は、山形県には庄内地方の「だだちゃ豆」・村山置賜地方の「秘伝豆」があり、新潟県下越地方には「さかな(肴)豆」「黒崎茶豆」がある。
 どれも晩秋の豆であるが、十月になれば乾燥した大豆として保存するようになる。
「青豆」として、その香とコクのある味を楽しむのは九月でなければならない。
 この種の豆を茹でるには、予冷されていないものを選ぶのが肝心である。
 茹でている間に、馥郁とした香りが部屋中に漂う。

 「芋名月」の「芋」は「里芋」を指す。芥川龍之介の『芋粥』の芋は「長芋」であり別の種である。
 土壌のせいか、この地方では純白できめ細かく粘りがある里芋ができた。
 江戸期に庄内に来た上方の商人が激賞したという記録が残されている。
 しかし、里芋は寒さに弱く、寒冷地では冬を越すのが難しい。
 「美味しいうちに食べよう」としたのであろう。それが「後の月」の時期であったと思われる。
 山形県には、室町時代から代々秘伝にして作ってきた伝統野菜「悪戸いも」や「五右ヱ門芋」ある。今では一般の流通には乗らない高級品種である。
 里芋にこだわった歴史が垣間見られる。

  郷土料理としての「芋煮」は、庄内・村山置賜・下越では里芋が主体ではあるのだが、素材や味には違ったものがある。
 今では山形市の馬見ケ崎川(最上川の支流)で開かれるものが、マスコミにもてはやされ、秋の風物詩となり、「月の宴」ではなく「芋煮会」になった。
 「月」から離れた「芋煮会」は、手頃な野外パーティーとして普及し、中には「これで五回目の芋煮会だ」とその参加回数を自慢する人も出てくる。
 
 
鳩居堂の日本のしきたり 豆知識

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  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
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食用菊・もってのほか


 「菊の節句」で書いたように、菊そのものは、古代より中国で延命長寿の花として菊茶・菊花酒、漢方薬として飲まれていた。
 わが国では、「延喜式」(927年)の典薬寮の中に、「黄菊花」の名が記録されていて、すでに宮中儀式の中で使われていた。重陽の宴が宮中で催され、天皇が臣下に菊花酒を賜り、無病息災、長寿延年の縁起を祝う際に使われた。

 食用としては、江戸時代から民間で食されるようになったとされており、1695年に記された『本朝食鑑』に「甘菊」の記述が見られる。
 食用菊は、苦味が少なく花弁を大きくするために品種改良された歴史があり、奈良時代に到来したものを原種として「延命楽」や「阿坊宮」などが作られた。
 江戸期は、植物の品種改良が盛んな時代で、現在に伝えられている園芸品種はこの時代に由来するものが多い。
 『本朝食鑑』が「甘菊」としたのは、古来品種から「苦味」や「えぐみ」を取り除き、食べやすくしたものであろう。その結果、菊花の甘さが感じられるようになった。

 松尾芭蕉が、元禄三年(1690)の晩秋・近江堅田で詠んだ句がある。
  「蝶も来て酢を吸う菊の膾哉」
 
 堅田の菊は、『本朝食鑑』の「甘菊」を継承されたもので、「管弁咲」「平弁咲」「ポンポン咲」の「黄菊」が今も栽培されている。
 芭蕉が食べた菊は、この種のもので「黄菊」なのであろう。

 現在、花そのものを食べるために生産されている食用菊は、山形県が第1位で全体の6割を占める。紅紫色の「もってのほか」という「管菊」である。
 これは新潟市近郊でも生産され、「かきのもと」という名で扱われる。
 どちらも晩生で収穫時期が限られ10月下旬から11月にかけてのもの。
 正式には「延命楽」という品種で、現在では更なる品種改良が進められている。

 黄菊など種は、ハウス栽培で年間を通して出荷されているが、食用としては、八戸市の「阿房宮」が有名である。乾燥させ海苔状にしたものを「菊海苔」として保存する。

 以上、食用菊の説明になったが、ここで話題にしたいのは、「もってのほか」の由来である。
 地元では「延命楽」では通じない。「もってのほか」という愛称でなければならない。 その名前の由来は、「天皇の御紋である菊の花を食べるとはもってのほか」とか、「もってのほかおいしい」といったことから転化したとか・・。諸説がある。
 しかし、すでに江戸期には食用にされていたのであるから、「天皇の御紋」は後世の附会である。それにしても、「天皇親政」を掲げた明治政府の意気込みの凄まじさを物語る話ではある。
 
47都道府県・地野菜/伝統野菜百科

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菊の節句(重陽の節句)

 旧暦九月九日を「菊の節句(重陽の節句)」として祝って来た習俗がある。
 節句は、古代から伝統的な年中行事を行う季節の節目であった。
 年間にわたり様々な節句があったが、そのうちの五つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが次の節句の五節句である。

 人日(じんじつ)は、一月七日 七草の節句。七草粥として残る。
 上巳(じょうし)は、三月三日 桃の節句。雛祭 菱餅や白酒など祝う。
 端午(たんご) は、五月五日 菖蒲の節句。菖蒲湯・柏餅・ちまきなど鯉のぼり。
 七夕(しちせき)は、七月七日 七夕。その祭りは各地各様だが最近でも盛んである。
 重陽(ちょうよう)、九月九日 菊の節句。菊を浮かべた酒などで長寿を祈願した。
 
 だが、明治政府は明治六年(1873)一月四日の布告で、旧暦に基づくこの五節句を廃止した。
 前年十一月十五日に太陽暦に改変したこと、神武天皇即位日(天長節・紀元節・・現在の建国記念日)など新しい祝日を制定する動きが背景にあった。 
 
 上の四節句は、四季の変化を愛でる日本的な民俗として、現在に引き継がれているが、「重陽」は全く影をひそめてしまった。
 陽の数として奇数の極である九が二つ重なることから重陽と呼ばれ、不老長寿を願い、その季節の花である香り高い菊が薬用としても用いられた。
 この節句の由来については、他の節句同様に様々な説がある。
 ここではそれに触れず、何故、「重陽の節句」が影をひそめたのかを探ってみたい。。
 
 そもそも「暦」は、天下国家が決めるもので、特に「旧暦」の策定は天皇の最も大切な任務であった。「天文博士」が月や星の運行を占い、その年の暦を奏上し勅許を得て各地に配布された。それは朝廷の権威であり、配布は公家の特権でもあった。
 だが、京都の御所を中心にした「暦」は、南北に長い日本列島の季節感とずれる。
 その間隙を補ったのが「三島暦」である。ただし、特権料は莫大なものであった。

 三月三日の「桃」もそうだが、九月九日の「菊」はそのずれ方が大きい。
 それに、稲の収穫期と重なり繁忙期であったため、民間の習俗に定着しなかったのではないかという説がある。
 そのかわり十月十日(旧暦)を「高い山」と称し、近くの高い山に登り、酒を酌み交わして祝った習俗が見られた。だが、この習俗は全く見られなくなり、いまでは微かな伝承として残るだけである。

 京都では、菊の香りが珍重された。平安時代には、前夜から菊の花にかぶせておいた「菊の被綿(きせわた)」を取り、その香を愛でた。
 その名残が上賀茂神社の「重陽神事」に見ることができる。被綿(きせわた)を神前に供え、烏相撲が奉納される。また、法輪寺(京都市西京区)では、菊花酒を飲んで800歳もの長寿を得たという中国の菊慈童の像に献花し、菊にちなんだ謡曲や能楽が奉納される。 民間の習俗としてではなく、「神事」として復活しているのである。

 「菊」についての歴史を見てみる。特に菊に託した意識の変化である。

 「菊の紋」は、江戸時代には幕府により「葵紋」とは対照的に使用は自由とされ、一般庶民にも浸透し、この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が作られるなど各地に広まっていた。
 しかし、1871年(明治4年)6月17日の太政官布告第285号で、皇族以外の菊花紋の使用が禁止され、一般庶民からは高嶺の花となった。
 「菊酒を飲む」などという行為は、野蛮で反逆的なものとされたのであろうか。
 「菊の節句」は、皇室の節句とされ、「神事」として扱われたきらいがある。 
 江戸幕府が定めた国民的祝日・五節句のなかで、「重陽の節句」だけが憂き目にあっているのは、このへんに起因しているのかもしれない。

 今では、「菊酒」をだす料亭も増えてきている。
 それとは別に「菊の花を食べてきた」習慣がある。飲む以上に食べることは野蛮な行為かもしれないが、八戸の「黄菊」や下越・出羽の「紅菊」は、昔々から庶民の食卓に登ってきた。酢を入れた熱湯で軽く湯がき、おひたしにして食べるのが一般的で、二杯酢などにする場合もある。
 この地方の庶民は、「菊のタブー」に犯されなかったのか、その美味しさにこだわったのか、それはわからない。

 「紅菊」は、「もってのほか」とも呼ばれ、鮮やかな色とすっきりした香りと歯ざわりの良さが身上である。最近では都心の八百屋でも、たまにお目にかかれるようになった。
 しかし、この菊は風土を選ぶらしく、関東に移植してもすぐに枯渇してしまう。
 
 
 
十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る

十六菊花紋の謎―日本民族の源流を探る

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  • 出版社/メーカー: 潮文社
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ひのもと(日本)  


 九州・福岡に伝わる民謡「黒田節」に、「ひのもと一のこの槍を--」という一節がある。この「ひのもと」は現在使われている「日本」を意味することは明らかである。
 だが、「ひのもと」という領土意識は、全く別のものであった。

 豊臣秀吉が、奥州仕置と呼ばれる政策の中で、「ひのもと」という表現を使った手紙が残されている。この「ひのもと」は「奥州」を指している。日本全体という領土意識から出た言葉ではない。
 また、中世の津軽安藤氏は「日之本将軍」と自称し、その扁額が若狭の羽賀寺に残されている。
 「日本」という国名は、『新唐書』『旧唐書』にも記述されているように古代からあるのだが、それとは別の「ひのもと」という領土意識が併存していた。

 青森県上北郡東北町(南部壺村)に「日本中央の碑」が伝承・保存されている。
 この「日本」は「ひのもと」と読むのが伝承に即した読み方である。
 「阪上田村麻呂が蝦夷制覇の際に、弓のはずで日本中央と刻印した石碑である」という伝承と、平安時代の歌人・能因の『歌枕』に載せられた「壺のいしぶみ」の伝承が入り混じった結果の所産である。
 阪上田村麻呂が、陸奥の奥地である壺村まで遠征した史実はないのだから、この伝承は後世のものである。
 平安時代の歌学書『袖中抄』(顕昭著。文治(1185-1190)頃成立。)には、「つぼ」という所に「日本の中央」と書いた碑があると紹介されている。
 15世紀の作とされる謡曲『千引』では、この地の「つぼのいしぶみ」が出てくる。
 『歌枕』としての「壺のいしぶみ」は、さまざまに語り継がれ、西行や芭蕉らの旅心を誘った。

 宮城県多賀城跡に「多賀城碑」が残されていて、芭蕉はこの碑を「壺の石碑」とみた。 だが、江戸期には、壺村と多賀城の二つの石碑について、どちらが本物か議論されている。「多賀城碑」は江戸初期に発見されたのだが、壺村の碑が発見されたのは昭和に入ってからのことである。
 明治天皇が東北巡行の時に、壺村の石碑を見たいと探させたが発見できなかったという記録がる。以来、数多くの人々が諸説を発表してきた。
 しかし、ここの主題は「ひのもと」であるから、この二つの石碑の話題から離れる。

 現在の国土領域から見れば、青森県東北町が「日本の中央」ではない。
 歴史学者・喜田貞吉は、「日本の中央」という意識は、千島列島を考慮することで説明できるとした。
 蝦夷地といわれた北海道が、古代「日の本(ひのもと)」「唐子」「渡」と三区分して呼ばれた時期がある。
 「日の本」は、大雪山系の東側を指すもので、千島列島につながる海域を含めていたとされる。いわゆる「オホーツク文化圏」といってもよい。
 「唐子」は、大雪山系の西側を指し、北東アジアへの広がりを持つ。
 「渡」は、渡島半島部である。
 
 「オホーツク文化圏」の研究は、まだ熱い議論が繰り広げられているが、「ひのもと」と称する地域意識が古くから存在していたことは否定できない。
 
 「日本」を「ニッポン」と発音するか、「ニホン」と呼ぶか。
 国はどちらも正しいとする。  どうも、領土意識には鷹揚な国に思えてならない。
 
 
古代蝦夷 (歴史文化セレクション)

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  • 作者: 工藤 雅樹
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/11/08
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秋津島

 庭先で「塩からトンボ」を見た。住宅街の中にある庭では珍しい。

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 トンボを「秋津」ともいい、日本を「秋津島」ともいう。

 古代、日本の国土を「秋津島(あきつしま)」とする異名があった。

  『日本書紀』によれば、山頂から国見をした神武天皇が感嘆をもって「あきつの臀呫(となめ)の如し」(トンボの交尾のよう(な形)だ)と述べたといい、そこから「秋津洲」の名を得たという。 また『古事記』には、雄略天皇の腕にのったアブを食い殺したトンボのエピソードがあり、やはり「倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と」呼んだとしている。

  白栲(しろたへ)の 衣手着そなふ 手腓(たこむら)に 虻かきつき

  その虻を 蜻蛉早咋ひ かくの如 名に負はむと

  そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ   (古事記・雄略天皇)

 日本列島の本州部分は、確かに「トンボの尻尾」に似ている。

 しかし、大和の最高峰から「国見み」したとしても、航空写真のような列島図は見えてこない。

 「トンボ」の別称として「あきつ」があり、それは稲の豊作を象徴するものであったのではないか。「稲(米)」は、大和朝廷の政治基盤であったことを物語っている。 「米」を基盤とする社会体制は、江戸期まで続き、その意識の古層は現在にも残されている。

 

 

あきつしま 蜻蛉島

あきつしま 蜻蛉島

  • 作者: 平川正枝
  • 出版社/メーカー: 現代写真研究所出版局
  • 発売日: 2013/05/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

 


ろれつが回らない

 
「ろれつがまわらない」とは、酒を飲んで酔っ払った人が、「何を言っているかさっぱり分からない」ような状態によく使われる。
 酒で言語障害が起き、舌がもつれることが原因と見られ、最近では「酒」だけではなく「老人性の病気の症状」とされ、その治療の処方が提案されてる。

 だが「ろれつ」の語源は「呂律」であって、仏教の儀式や法要で僧が唱える歌のような曲「声明(しょうみょう)」の音階のこととする説が定着している。
 西洋音楽的にいえば、「呂」は「短調」であり「律」は「長調」に近い。
 同じ「声明」でも、時により「呂」で謡うこともあり、「律」で謡うことがあった。 この「呂」と「律」の音をうまく使い分けできないことを「呂律が回らない」といった。
 「声明」は、現在でもチベットでは日常的に行われており、少数ながらCDとして手にすことができる。
 しかし、わが国では貴重なものとなり、なかなか聞くことができない。最近ではそれを復活させようとする動きがある。
 「声明」は、密教によってもたらされたもので、「天台系」(比叡山)と「真言系」( 高野山)があり、わずかながら各地に残されている。
 中でも、洛北・大原にある三千院(天台系・比叡山別院)は、「声明の里」と呼ばれ、古くから声明がさかんに行われ、今も毎年五月三十日に大法要が行われているという。

 この事を知ったのは、わぐりたかし氏の『ぷらり日本全国「語源遺産」の旅』(中公新書ラクレ)である。
 詳細はこの著作を参照されたい。「語源遺産」という発想もさることながら、気取らない文章で描いた旅日記としても面白い。楽しんで読んだ本である。全国17ヶ所の「語源発祥の地」を探訪したもので、その中に「ろれつが回らない」が収録されている。
 
比叡山延暦寺の声明

比叡山延暦寺の声明

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: 日本伝統文化振興財団
  • 発売日: 2001/07/21
  • メディア: CD

 宮城県の北部に、平安期からの伝承を持つ「奥州三観音」という三つの古刹がある。
 その中の一つ「箟峰寺(こんぽうじ)」(宮城県涌谷町)は天台宗の寺であり、今も「声明」が奉納されている。
 この寺を訪れたとき、「ここで聞く声明はすばらしいものだから、是非聞きに来てください」と誘われたが、その機会がないままである。
 平野部に突出した小高い山の頂きにあるこの寺は、「霧岳山箟峰寺」といい、「霧山観音」の愛称を持つ。その霧に包まれて聞く「声明」は、想像するだけでも魅力的である。
 古来、宗教と音楽は密接な関係にあった。
 だが、仏教においては無視されてきた嫌いがある。「悟り」とか「あの世での救済」とか、説教(説経)が本流とされ、音楽等は下等な文化とされた。
 「声明」は、後世の芸能(浄瑠璃・能等)に継承されたとする説もあるが、キリスト教の賛美歌のような姿にはならなかった。
 
 
 
 
ぷらり日本全国「語源遺産」の旅 (中公新書ラクレ)

ぷらり日本全国「語源遺産」の旅 (中公新書ラクレ)

  • 作者: わぐりたかし
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2013/03/08
  • メディア: 新書
 

 


暗証

 
 仏教の話の中に「暗証の禅師」という言葉がある。
 「坐禅ばかりしていてさとりにくらい(教えの理解に乏しい)禅僧(ぜんそう)」のことを呼ぶ。
「暗証」の<暗>とは<くらい>、<証>とは<さとり>を意味する。
 だかr「さとりにくらい」ことは、〈さとり〉を求める禅僧にとって、修行の目的が逸脱していることになる。

 ちょっと聞きかじっただけで物事を理解したと思い込んだり、自分一人の狭い殻に閉じこもって勝手な解釈をすることなどが、本来の「暗証」である。
 物事やさまざまな現象を観察し、その本質を見極めよう(「証」)とすることは、たやすいことではない。としても、自分の中にその意識と方向性をつねに持つことが重要といえる。

 しかし、最近の風潮は逆行していて、誰か(他人)が「証」したことを鵜呑みにするだけでことたれりとするきらいがある。
 もっとも、価値観が多様化している社会では、自らの「明証」を持つことは難しいことで、いきおい「暗証」にならざるを得ない側面がある。

 現在、暗証番号という言葉でイメージするような、「自分であることを暗に証明する」という意味での暗証とはかなり違いがある。
 
 
増補 日本語の語源 (平凡社ライブラリー)

増補 日本語の語源 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: 阪倉 篤義
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2011/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 
 
 

あくどい


 「灰汁(あく)どい」と書くのが正しい。
だがいまは「悪どい」と書いた方が、実際の使われ方に則している。

 言葉は、時代と共に変化しているのだから、語源をたどり「この使い方は間違っている」などというのは迷惑なことである。しかし、その背景には、生活の智慧が隠されていることがあり、それが面白い。

 現在では、木を燃やしたり、炭をおこしたりはしなのだから、「灰」にはめったにお目にかかれない。むしろ「死の灰」を連想するのが現代風であろう。
 「灰汁」という字は「あく」とも「あくじる」とも読む。灰に水を混ぜたもので、その上澄みを様々に使った。

 「灰汁どい」は、草木染めで色を出すためや色止めをする際に使われたことに由来する。
「灰汁」の使い方で、色の出具合が変わるのであり、使い方を間違うと微妙な色もきつく、くどい色になってしまう。やりかたが度をこして、いわゆる「どぎつい色」になり、嫌味な色として嫌われたのである。

 「灰汁」は料理にも使われた。「灰汁を抜く」という言葉に残されている。
 いまでは「アクを取る」として、素材からでるアク(いやみな成分)を取り除くことをさすが、わらびやぜんまいなどアクが強い山菜などを調理するのに、「灰汁」が使われるのである。これも度をこすと素材の持ち味がだいなしになってしまう。
 「度をこすこと」が「悪い」のであり、「悪さ」が意味の表面にでてきたといえる。
 それが強調され「悪辣なやりかた」「たちが悪い」というように使われている。
 このように語源をたどる面倒くさい話も「あくどい」のである。

 芭蕉の句に次のような例がある。
  同じ事 老の咄(はな)しの あくどくて 『炭俵』
 しつっこく同じ話を繰り返しする老人も、「軽味」がなく、「風流」ではなく、「あくどい」のである。
 
 
 
草木染―四季の自然を染める

草木染―四季の自然を染める

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