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噴飯もの

 
 「噴飯もの」は、食べかけの飯をこらえきれずに噴き出す意から「我慢できずに笑ってしまうこと」「「おかしくてたまらないこと」の意である。

 文化庁が発表した、昨年度の「国語調査」によると、この慣用句の正答率はわずか20%だった。「腹立たしくて仕方ないこと」と答えた人が49%にのぼる。
 まるで違った意味で理解されている。
 前に書いたように、僧の修行であった「乞食(こつじき)」が、物乞いをする「乞食(こじき)」になったように、言葉は時代とともに変わるのだから、「本来は」などと目くじらを立てても意味がない。
 言葉を支えている社会の習俗の変化を受けて、意味も変化する。

 「噴飯もの」は、「飯=(米)」を主食として腹いっぱい食べる時代を反映した言葉であった。しかし、今では「噴出せざるを得ないほど口いっぱいにする」食べ方をしない。
 それだけではなく、「飯」そのもの消費量が減少している。
 米の消費量は、昭和37年度には1人当たり年間118.3キログラムであったものが、平成17年度には、その半分近くの61.4キログラム(1日約1.1合)になった。
 このへんで下げ止まりとなるが、上昇する気運はない。
 米への依存度が高い高齢者層から、パン・麺への依存度が高い若年層への世代交代が進むと予想されるからだ。

 つまり、食生活の変化が「噴飯する」現象を少なくしているのであって、言葉の意味を支えている社会現象が背景にある。
 「慣用句」は、その時代の社会的慣用から発生した言葉であるから、慣用(習慣・習俗)が変われば意味も変化する。
 中には「死語」となったものが数多くあり、それらの「本来の意味はこうである」「その使い方は間違っている」などと言われても、生活実感がないのだから、日常の会話にはそれほど不都合を来たさない。
 まして、「慣用句」の正解率が下がったからといって、日本語の表現力低下と大騒ぎするのは短絡的思考である。

 昨年度の「国語調査」では、「噴飯もの」以外に「流れに棹(さお)さす」「役不足」「気が置けない」で、本来の意味ではない回答が本来の使い方を上回る結果となった。

 その前年の調査に「にやける」があった。
 (1)なよなよとしている。  (2)薄笑いを浮かべている。 どちらが正しいか。
 (1)15% (2)77% が結果である。  正解は(1)。
 しかし、(2)を間違いとするのは忍びがたい。
 「男は黙って」「威厳を持った姿勢」でいることが、正しい習慣だと躾けられた時代は長く続いた。武士の残影であり、この姿がビールのCMから消えたのは最近である。
 男が「にやける」のは「(女のように)なよなよとすること」で、威厳に関わる卑しい姿とされた。しかし、「なよなよとしている」時の顔は「薄笑いを浮かべている」状態に近いのではなかろうか。
 すでに「威厳」は「男の看板」ではなくなった。「なよなよする」ことも非難されることではない社会になっている。
 むしろ、このような設問をする試験官の意識が問題で、何を測定しようとしたのかその意図がわからない。

 太平洋大戦後、生活習慣が急激に変化しているのを受け、古い言葉の意味がこのように逆転している現象は、その変節点(K点)を体験している歴史的な瞬間なのだろうか。
 慣用句の歴史は、庶民生活の歴史でもある。
 
 
お米と食の近代史 (歴史文化ライブラリー)

お米と食の近代史 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 大豆生田 稔
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 単行本
 


托鉢(たくはつ)


 托鉢は、修行僧が「乞食行(こつじきぎょう)」の際に使う鉢である。鉢の代わりに頭陀袋を使うことがある。
 「乞食行(こつじきぎょう)」は、修行僧の生活に必要な最低限の食糧などを乞い、信者に功徳を積ませる修行で、信者の家々をまわり、門前で経文を唱えて布施を受けた。
 今も修行の一つとして残されている。
 短い経文を唱え、布施を受けても「ありがとう」ということもなく、頭を下げることもない。布施は相手に功徳を積ませる善行であり、僧にとっては生きていることを感得する重要な修行である。
 有徳の僧になると、托鉢が勝手に空を飛び「乞食(こつじき)」をおこなってくるようになるという。いわゆる「飛び鉢」伝説である。
 中でも【信貴山縁起絵巻】の〈飛倉の巻〉が有名であり、平安時代末の12世紀後半に制作され,信貴山の朝護孫子寺に伝わっている。
  
 実は、ここで書きたかったのは「乞食(こじき)」のとである。
 いつの頃からなのか、僧侶でない者が路上などで物乞いをすることを「乞食(こじき)」と呼ぶようになった。僧が堕落したのか、民衆が堕落したのか両面がある。
 寺院や仏像を作る費用を調達するため、各地をまわり、仏教による救済を進め、布施を受けた「勧進聖」がいた。
 それが「五木の子守唄」でうたわれる「かんじん」のように「貧乏」を意味する言葉に変容した歴史がある。
 同じように「乞食(こつじき)」は、修行僧が研鑽する「行」から離れ、単に「ものを乞う人」という意味になり、「こじき」と呼ばれるようになった。
 しかも、現在では差別用語(放送問題用語)とされたため使用することはできなくなっている。「乞食(こじき)」は反社会的な行為であるだけではなく、ある特定の集団を非難する「用語」とされた。
 誤解を避けるために、この文のタイトルを「托鉢」とした次第である。

 「乞食(こじき)」の語源的由来は、仏教からきているとされ、その姿は前述したが、もう一つの流れがある。

 「乞食」を「ホイト」と呼ぶ方言がある。意味することは同じで、東北地方で使われることが多いのだが、九州・下関や北海道でも使われているという。
 その土地の人々は方言として意識しているが、ほぼ全国的に使われた言葉である。
 明治期に策定された「標準語」に採録されなかっただけなのかもしれない。

 「ホイト」は「ほかいびと」からきた言葉で、「ほかう=祝う」が語源である。
 平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』には、「乞児(ほかいびと)」と書き、「家の戸口に立ち、祝いの言葉を唱えて物を乞い歩いた人」とあるから、この習俗の歴史は古い。
 後に「門付芸人」と呼ばれる人々のことで、この系譜から民俗芸能が生まれ、形を変えながら現在に伝承されている。
 正月の獅子舞、三河の万歳などを想定すれば、「ほかう=祝う」姿が見える。

 しかし、問題なのは、「家の戸口に立つ=門付」をして「物を乞う」姿である。
 まともな祝言もいえず、芸もなく、一方的に門付されたら「迷惑」である。
 「乞食行(こつじきぎょう)」でも、経文も知らず貧相な姿で門前に立たれたら「結構です」と言いたくなる。
 「ほかいびと」が「乞食(こつじき)」と混同され、「ホイト」と呼ばれ「こじき」を意味するようになった。

 「言葉の歴史」として一言指摘したいことがある。
 「方言」の中には、平安時代に京都で使われた言葉の残影が見られることが、ままあるということである。
 山形県置賜地方では、「ありがとう」を「おしょうしな」という。今も日常的に使われている。「お笑止しな」と書くと誤解を受けるのだが、「笑止」を起源とする平安期の京言葉からきているという説がある。
 「笑止」という言葉自体、様々な意味に変化し、現在では死語に近い。
 しかし、このような例は他にもあるのだが、これは今回の課題ではない。
 


    
旅芸人のフォークロア―門付芸「春駒」に日本文化の体系を読みとる (人間選書)

旅芸人のフォークロア―門付芸「春駒」に日本文化の体系を読みとる (人間選書)

  • 作者: 川元 祥一
  • 出版社/メーカー: 農山漁村文化協会
  • 発売日: 1998/03
  • メディア: 単行本

海女

 「海の女」と書いて「アマ」と読む。
 女の仕事として見られているが、「海士」とも書き「士(男)」の仕事でもある。
 「海士」は少数ながら今も現役で活躍しており、岩牡蠣などが取られている。
 この「海女」を無形世界遺産に指定して保護しようとする動きがある。
 NHKの朝のドラマ「あまちゃん」がきっかけで、かつてない大津波に襲われた沿岸の人々を応援する「東北がんばれ」が背景にある。
 その意味では、喜ばしい現象である。単なる観光化として見るには忍びがたい。

 女・男の差ではなく、両者を含め「海人(あま)」といわれた。
 「海人(あま)」は、海に潜って貝類や海藻を採集する漁を生業とする人で、古くは漁師全般を指していた。
 最古の記録は『魏志倭人伝』にあり、倭人は海中へと潜り好んで魚や鮑を獲ったことが記されている。
 また、神奈川県三浦市毘沙門洞穴遺跡からは、1世紀前後と見られる鹿の角でできたアワビオコシと見られる遺物が見つかっている。
 『万葉集』などでも、讃岐国、伊勢国、志摩国などで潜水を行う海人の歌がある。
 特に伊勢志摩は、伊勢神宮の神事と関わり、優遇されてきた歴史がある。
 沿岸で生活した人々の歴史は、このように古いのだが、日本の歴史の中ではあまり重要視されていない。

 「素潜りの漁」をしたのは、暖流が流れる沿岸であり、太平洋側では岩手県久慈市、日本海側では佐渡島の北・山形県飛島あたりが「北限」とされる。
 黒潮が押し寄せる海は、様々な魚類や藻類を繁殖させる豊穣の海であった。

 沿岸の海に依存してきた民族の歴史は、わが国に始まったことではない。
 むしろ、わが国では沿岸の民は長く蔑視され続けてきた。
 律令制をとった古代国家は、「班田」すなわち「稲作」に基盤を置き、その流れが江戸時代まで続いた。「米」を基盤とするもので、江戸時代の大名や武士は「石高」で評価された。それに鎖国令があり、海に依存する民は切り捨てられた。

 沿岸の海は、黒潮や親潮だけで豊穣になるのではない。
 奥山から絶え間なく流れ込む水と交じり合うことによって、沿岸の漁業が成り立っている。沿岸の漁師たちはこの重要性を昔から知っていて、森を大事にしてきた。
 だが、明治以来の工業化の歴史は、それに逆らうものであり、効率化の号令のもとに、森や河川を改造し、沿岸を汚染してきた。
 沿岸の漁民にすれば、新しい苦難の道ができたことになる。

 沿岸漁業の工業化とは養殖化でもある。牡蠣・ホタテ・わかめ・のりなどがあり、今ではマグロまで養殖される時代である。
 しかし、同じ養殖のホタテでも海によってまるで違うものになる。それは海水の汚染度や海流の作用によるものと見られる。
 
 話は翔ぶが、水の味を聞き分ける「食味官能検査」というものがある。
 鋭い人になると、濾過し煮沸させた水でも、どの川のものか、分別する。
 「天然の鮎」は、その川の匂いを残すという。
 河川と海はこのように微妙な関係から成り立っている。
 沿岸の環境は、最近では改善されるようになったとはいえ、まだまだである。
 沿岸で取れる魚は、「量」だけではなく、「種類」も少なくなり、昔は「雑魚」といって見向きもされなかったものまで「高級魚」として扱われる。
 魚の美味しさが伝承されるのだから、それでも良いとしなければならない。

 「海女」は、このような環境でも生き残った貴重な存在といえるかもしれない。
 無形世界遺産としてだけではなく、環境論の引き金にもなって欲しい。

 沿岸漁民の歴史はあまり知られていない。それを「北限の海女」で有名になった三陸地方を舞台として追いかけた本が出版された。
 『三陸の歴史未来学』(久慈勝男・日本地域社会研究所・2013.7.15)である。
 盛岡藩・南部藩・八戸藩などを書いた歴史書はあるが、いずれも陸地支配を主題にすることが多く、しかも三陸地方には殆ど言及していない。
 だが、この書は三陸を通史的にたどるだけではなく、「沿岸の人々」に視点を据えて、新しい歴史を開こうとする意欲作である。
 これまで知らなかったことが随所に出てきて刺激された。 
 
 
 
三陸の歴史未来学 (コミュニティ・ブックス)

三陸の歴史未来学 (コミュニティ・ブックス)

  • 作者: 久慈 勝男
  • 出版社/メーカー: 日本地域社会研究所
  • 発売日: 2013/07/08
  • メディア: 単行本

ゆべし


 「七夕のお供え物(索餅)」で、延喜式の「索餅」について触れた。
 そして、「米粉」にこだわった系譜に「菓子」があると指摘したのだが、その延長線上に「ゆべし」があるのではないだろうか。
 
 後で詳しく書くが「ゆべし」には、様々な形態と習俗があり、これが「ゆべし」だと言い切れないのだが、とりあえず概説すれば次のようなものといえる。

 現在復興している「索餅」は、「米粉を練って作られた菓子」という。
 米粉を練って茹でれば「団子」になる。油で上げれば「唐菓子」とされる。
 米粉に「くるみ・ごま・柚子などの加薬」を練りこみ、砂糖や味噌で甘辛く味をつけ、蒸したものが「ゆべし」の元型であろう。

 ところで、米を粉にする製法には多彩な手法があり、日本人が「米」にこだわってきた食の歴史が隠されている。
 「粳米(うるちまい・普段食べる米)」にするか、「糯米(もちごめ)」にするかによって、全く違ったものになる。さらに「糯米」をそのまま粉にするか、一度蒸して乾燥させ粉にするか、その粉の粒子をどの程度にするか、などによっても違う。
 「求肥」「道明寺」などと呼ばれる菓子類は、菓子職人の探究心から生まれた。
 京都:亀末廣の「索餅(求肥)」は、このようにして生まれたもので、いあわゆる「ゆべし」に含めてよいか迷うが、糯米の粉を練って蒸した部類に入る。。

 「ゆべし」は「柚餅子」とも書かれ、「柚子」を使ったものであった。
 先ほどの加薬を入れた素材を「柚子の実」に詰めて、蒸し乾燥させたのが「柚餅子」の起源とされる。
 しかし、主に東北地方で見られる「ゆべし」には柚子は使われていないものが多い。。 「柚餅子」と「ゆべし」は、土地と時によって様々な変化と伝承を持ち、和菓子屋のものだけではなく、家庭でも作られ、同じものとはいえない現象をおこしている。
 岩手県の中でも、多様な「ゆべし」があることに驚いて、その謎に迫ろうとする同好会が作られ、「ゆべし学会」が結成され、全国の「ゆべし」が試された。
 だが、いまだ「ゆべしとは何か」学会の結論は出ていない。
 
 「ゆべし」という言葉が文献に初めて出でてくるのは、室町時代・文明十六年(1484)の『お湯殿の上の日記』であるとされるが、名前のみで形状や味については不明である。 しかし、柚は平安時代には使われていたのであり、「丸柚餅子」の原型と見てもよいものが「薬」として作られていた可能性がある。

 「柚餅子」の製法が文献で見られるのは、江戸初期である。
 寛永二十年(1643)の『料理物語』には、味噌、生姜、胡椒、榧、胡麻、杏仁を使い柚子の実に入れた「丸柚餅子」が出てくる。
 また、慶安五年(1651)の『萬聞書秘伝』には「丸柚餅子」と「棒柚餅子」の二つが書かれており、この両者は古い時期から共存していた。
 「棒柚餅子」は、柚子の皮を刻み練りこんだもので、棒菓子として扱われ「丸柚餅子」とは違った道をたどるようになった。それが現在の「ゆべし」かもしれない。
 
 江戸も中期になって、庶民の食へのこだわりが強くなってくると、様々な料理本が出版された。天明二年(1782)に『豆腐百珍』が出版されると、その好評にあやからんとして数多くの料理本が続いた。その中に『柚珍秘密箱』というのがあり、『豆腐百珍』から三年後に出版された。

 『柚珍秘密箱』に「丸柚干(まるゆびし)の仕かた」「花柚干(はなゆびし)の仕かた」「高野(こうや)薬柚干(くすりゆびし)之仕方」が書かれている。
 
 「丸柚干」は柚釜に、胡麻味噌・うる米の粉・榧の実・麻の実など見繕いのものを練り合わせて詰め、蒸してから干す保存のきく製法である。

 「高野薬柚干」は、醤油で味を付け「丸柚干」同様蒸して干すのであるが、干す際に味噌豆を煮て柚を包み、杉の葉のつとに包んで干すという。このようにすることで、取肴として珍重されるだけではなく、薬としても重宝なものだとされている。

 「花柚干」は、柚の皮をすり、白砂糖・白味噌・うる米の粉・葛粉を水と少しの酒で練り合わせ、うどんを打つように薄くのばし、好みの形に切り、蒸して干したものという。すりあわせる際、そめ汁を入れ、様々な色のものを楽しむことができる。
 これは、「板柚餅子」といってもよい。加薬が殆ど無く、むしろ「切山椒」や「切生姜」に近いと思える。

 現在ではお目にかかれない「柚餅(ゆべし)連串(でんがく)」という料理があった。
 「うどん粉・うる米粉・餅米粉・砂糖・くろごま・焼き栗・生姜・こし味噌を練って柚釜に入れ、蒸して冷ましたものを、三つほどに切り、田楽串にさしてよく炙る。」というものである。
  
 この「丸柚餅子」の製法を伝統的に継承して、現在に伝えている老舗がある。
 輪島の中浦屋の「柚餅子」である。
 中浦屋の「丸柚餅子」は完熟し、中でも特に大粒で品質のよい厳選した柚子を丸ごと一個、贅沢に使う。柚子の中身を竹べらで丁寧にくりぬき、その外皮を容器(柚釜)として、中にもち米と秘伝の材料を調合したものを詰めてせいろで蒸す。その後、自然乾燥させて再び蒸す…これを二十~三十回、飴色になるまで繰り返すという、昔ながらの製法を守り続けてる。
 一つ一つ手間ひまをかけ、丹念につくられる丸ゆべしは、約四ヶ月という時間を要するため、一年に一度しか製造できない貴重な逸品。中浦屋の「丸柚餅子」は、美しい飴色、柚子の香り、上品な甘さとかすかなほろ苦さ、これらの絶妙さが時には芸術品と評されるほどである。「昔ながらの製法」というが、ここには菓子としての極みを目指す厳しい伝統が感じられる。

 「丸柚餅子」の中でも「高野薬柚干」のように取肴、あるいは携帯食品として珍重されたものがあり、現在では地域の特産品として復活している。
 長野や三河だけではなく、東京都青梅でも作られ、取肴としても絶品である。
 
 少々「索餅」にこだわり過ぎた。
 小麦ではなく、米に執着した歴史の一場面を探すことを課題としたかったのである。
 
 
 


七夕のお供え物(索餅)

 
 七夕の習俗が我が国で、どのように変貌したのか、時代と地域による姿の違いをどのように読み取るのか、そして現在に残された「七夕まつり」をどのように楽しめるのか。
 平安時代の故事だけが、この楽しみ方を伝えるものではない。
 だが、「索餅(さくべい)」は、日本文化の根底にある「粒食としての米」と、外来のものとされた「粉食としての小麦」の歴史を見る格好の題材である。

 まず、「索餅」とは何か。
 平安時代の儀式書『延喜式』第三十三・大膳職には、「索餅」の素材が載せられていて次のように記されている。
 ①『造雑物法索餅料』として、材料「小麦粉一石五斗、米粉六斗、塩五升」で六百七十   五藁を得る。
 ②『手束索餅亦同』として、材料「糖料、糯米一石、萌小麦二斗」で三斗七升を得る。
 調理方法は記されていないから、どのようなものができあがったのかは推測する以外にない。 ただ、前者は「藁」単位であることから、小分けして乾燥されたと思われ、後者は糖料と萌小麦(小麦麹だろうか)を使って発酵させたものと推測される。

「索餅(さくべい)」は、料理研究家のあいだでは、現在の「素麺」や「うどん」の原型であるとされている。
 しかし、 岡田哲編『たべもの起源事典』によると、米粉を三割近くも含むと生地が切れやすくなり、細く伸ばして縒り合わせることが可能だったのか疑問視している。また、食べるときには、蒸したり茹でたりして醤や味醤、酢などを付けたのではないかという。 近年、①の材料を使って、食品加工技術者の応援を受けながら「索麺」つくりに挑戦した麺職人がいて、岡田説が正しいことを証明した。
 延喜式の「索餅」から現在の「索麺・うどん」までの変遷をたどるだけでも一冊の本になる。しかも、いろいろな説があり、断片的な文献が古代から見られ、江戸期の文献を含めれば、文献だけでも大作の「索餅事典」になる。
 すでに、この系列を研究した書が多数出ている。

 日本麺類業団体連合会『麺類雑学辞典』から引用する。
 【索麺は、室町時代では、茄でて洗ってから蒸して温める食べ方が主流で、「蒸麦」や「熱蒸」とも呼ばれた。この時代の文献には、「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」という文章も残されている。
 江戸時代には、七夕にそうめんを供え物とする習俗が広まっていった。これは、細く長いそうめんを糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものである。】

 南北朝時代の書である『祇園執行日記』の康永2年(1243)7月7日の条に、同じ食品(麺類)を指して索餅、索麺、素麺と三通りの記述があり、神前に供えられた。

 「索餅」が「索麺」となり、七夕に結びついた経緯はおおよそ以上である。
 、
 「索餅」から「素麺」への道は、「小麦粉」へのこだわりの道とすれば、「菓子」への道は、「米粉」にこだわった変身の道である。

 京都:亀末廣の「索餅(求肥)」はこの系譜を継いでいるのであろうか。
 延喜式の②の方法が源流とも考えられるのだが、その過程をたどる資料はない。

 しかし、「菓子」としての「索餅」には、粉を練って油で揚げた「唐菓子」の一つという伝承があり、神餞として、また仏前にも供えられた。
 『倭名類聚抄』に「八種唐菓子」として載せられている。
 鎌倉時代のものとされる料理書『厨事類記』に、その作り方が書かれている。。
 【粘り気の少ない米(うるち米)を精米して、粉にしてふるう。
  水を加えて少し練る。(しとぎに近い状態)
  湯を沸かし、生地を湯に浮くまでゆで、臼にいれてつく。
  臼から取り出す際は濡らした布につつみ、布の端をあげてまとめ、冷めないうちに少  しづつ造形する。 最後に良質の油で揚げる。】
 要は「団子」を作り、様々に成形して油で揚げたものである。
 だが、この中には「索餅」の名は入っていない。そして鎌倉時代末期には、その多くが既に忘れ去られていた。

 江戸期になって「唐菓子図」というものが『集古集』に収録されている。
 20種の図があり、先ほどの「八種唐菓子」に12種が追加されている。
 その中に「索餅」があり、縄のように捩った棒状のものが2本ひと組になって描かれている。
 このような形で復活した経緯は、たどれないでいる。
 和菓子の老舗・虎屋の「虎屋文庫」にも問い合わせ、それなりの文献を提供してもらったが、直接的に解明するものはなかった。
 
  だが、揚げた「索餅」は、今では京都の幾つかの寺で、お茶請けの一つとして提供している。 
 様々検索してる時に『 めんと和菓子の夜明けー索餅の謎を解く』(松本忠久著)に出会った。 まだ読んではいない。
 
 
 
めんと和菓子の夜明け―索餅の謎を解く

めんと和菓子の夜明け―索餅の謎を解く

  • 作者: 松本 忠久
  • 出版社/メーカー: 丸善プラネット
  • 発売日: 2011/10
  • メディア: 単行本
 

節句のお供え物


 「節句」は「節供」とも書く。「節に供える」のであるから「節句のお供え物」という表現は重複した言葉である。
 それはさておき、五節句につきものの「お供え」を見てみると、不思議な現象にめぐりあえる。

 一月七日 七草の節句。七草粥として残る。
 三月三日 桃の節句。桃の花を飾り菱餅や白酒など祝う。
 五月五日 菖蒲の節句。菖蒲湯・柏餅・ちまきなど鯉のぼり。
 七月七日 七夕。笹竹に五色の短冊。索麺・瓜南瓜茄子などの野菜。
      そして「索餅(さくべい)という菓子。
 九月九日 菊の節句。菊を浮かべた酒などで長寿を祈願した。

 問題は「七夕」で、他の節句の習俗は地域による差はそれほど大きくないが、七夕の習俗はさまざまである。

 七夕の行事が わが国に伝わったのは奈良時代とされる。
 古代中国に「乞巧奠(きこうでん)」と呼ばれる星祭があった。女子が裁縫の上達を願って、養蚕や針仕事を司る星とされる「織女星」に針や絹糸を供えたお祭りである。
 そして、この祭りが、日本古来の、神様へ捧げる衣を織る「棚機女(たなばため)」に対する信仰と結びついて、「タナバタ」と読むようになった。
 なお、「巧」は裁縫など手仕事が巧な事をさす。そのため「琴や琵琶」などの上達の願いも含まれるようになった。

 京都の冷泉家では、今なお王朝の名残をとどめる姿で乞巧奠が催されている。
 祭壇「星の座」を設け、そこに供えられるのは「うり(瓜)なすび(茄子)もも(桃)なし(梨)からのさかづき(空の盃)に ささげ(大角豆)らんかず(蘭花豆)むしあわび(蒸蚫)たい(鯛)」である。
 これを読み上げると三十一文字の和歌になっている。
 いずれも二組で、それぞれ、彦星と織姫への供え物という。

 この伝承には「笹竹」も「索麺」も「索餅」も登場しない。
 後世、七夕が「盂蘭盆会」の習俗と混じりあったことがある。
 「笹竹」を神仏の依代とし、祀った後に禊のために川に流した。「眠り流し」といい、「ネブタ・ネプタ」の由来という説もある。
 「笹竹」が「青竹」となり、仙台の七夕に見られるような祭りになったのではないかと考えられる。
 また、「五色の短冊」の「五色」は、佛と縁を結ぶ糸・布を思わせる。

 七夕に「索麺」を供える風習は関西に多いが、東北ではお盆の時、仏壇に笹竹を飾り、わざわざ長く作った「索麺」を供える所がある。
 「索麺」は「むぎなわ」とも呼ばれ、その源流は平安時代の儀式書『延喜式』にあるとされる。そこに「索餅(さくべい)」の材料が詳細に書かれている。
 室町時代には「索餅」と書いて「むぎなわ」と読まれた記録があり、その形も食べ方も現在の索麺に近いものであった。

 ところが「索餅(さくべい)」というのは、唐から伝来した「菓子」であるという伝承が別にある。七夕の菓子として、長く続けられたようだが一時断絶し、現在になって復活されている。
 しかも、大きくいって二つのタイプがあり、その姿はまるで別物である。
 
 京都:亀末廣の七夕限定のお菓子に「乞巧奠」がある。
 【天の川(道明寺)・願いの糸(葛)・索餅(求肥)・梶の葉(こなし)・ありの実(薯蕷)・鞠(落雁)・瓜つふり(外郎)】の7個セット。
 ここの「索餅(店ではさくべいと呼ぶ)」は(求肥)で作られた餅菓子である。
     
 一方、油で揚げたドーナツ風のもので、飛鳥時代から平安時代に、中国・唐から伝えられた穀粉製の菓子だという。
 唐菓子(とうがし)は、もち米・うるち米・麦・大豆・小豆などの粉に、甘味料のあまかずら煎(葛の樹液を煮詰めたもの)や、水あめ、蜜や塩を加えて練り、丁子(ちょうじ)や肉桂(にっき)などの香料が強い油分を入れてお餅にする。または、そのお餅を胡麻油で揚げて作られる。
 貴族に愛好され宮中に献上されたり、神餞や仏前に供える上菓子として用いられた歴史があり、今も京都の一部寺院に残されている。

 七夕と「そうめん」そして「索餅」、これは「食の歴史」であり、また「信仰の歴史」であり、「言葉の歴史」の範疇を超えている。
 だが、習俗の歴史として「索餅」にこだわってみたい。
 その報告は次の課題とする。

 
神饌 ― 神様の食事から“食の原点”を見つめる

神饌 ― 神様の食事から“食の原点”を見つめる

  • 作者: 南里空海
  • 出版社/メーカー: 世界文化社
  • 発売日: 2011/03/11
  • メディア: 単行本
 

六日の菖蒲、十日の菊

 
 「六日の菖蒲、十日の菊」ということわざは、今では使われなくなった。
 だが、このことわざの背景には、いろいろな歴史が隠されている。 

 五月五日は「端午の節句」で菖蒲を軒先に吊るし、菖蒲湯に入る習俗があった。
 菖蒲は、疫病を防ぎ、邪気が家の中に入るのを防ぐものとされた。
 九月九日は「重陽の節句」で菊を愛でた。
 菊は、不老長寿の薬草とされ、菊酒を飲むことによって長寿を祈願した。
 いずれも、古代中国にその起源があり、わが国でも平安時代から江戸末期まで続き、民間の習俗に深く根付いたものである。
 「菖蒲」だけは、現在でもスーパーなどで手に入るので、「菖蒲湯」を楽しむことができる。

 上のことわざは、必要な日の翌日では「全く価値がない」ことを意味している。
 菖蒲そのもの、菊そのものという、「モノ」に価値があるのではなく、「節句を祝う」その「コト」自体に価値があるからである。
 「モノ」ではなく「コト」を重視するのは、文化が成熟していることの現れといえる。
 最近、いわゆる「マーケティング・コンサルタント」と称する人たちが、これからの消費市場は「モノ指向からコト指向へと変化している」などいう。この指向性はこの業界でも十数年前から指摘されていたのであって、全く新しい概念ではない。
 むしろ、すでに平安時代には見られた現象である。
 明治維新の際に、「旧い習俗は幕府の権威を踏襲するもの」として排斥されたため、混乱が起こった。習俗に秘められた「コト」の価値も切り捨てられた。

 問題は、「コト」の内容と意味付けである。

 『類語大辞典』(講談社、2002 年)によると
「モノ」は、「具体的な形をもち、見たり触ったりすることができ、どこかにあったり、             動いたり変化したりする、生命のない、あるまとまりやかたまりを典型と              し、さらにそれらに見立てられた存在を幅広くいう語」
「コト」は、「ものが存在したり、生じたり、動いたり、消えたりして、変化し展開して      いく姿を、時間の流れのなかでひとつのまとまりとしてとらえていう語」

 この説明は難しい。むしろ、「モノとコトの博物館」( 北海道大学総合博物館 )の説明が明解である。
 「博物館にあるさまざまなモノは、コト(=事/言)つまり情報とセットになって初めて意味をもちます。モノが具体的で目に見えるのに対し、コトは不確定で捉えがたい面があります。それぞれをハード/ソフト、あるいは理系/文系の対比で捉えることもできるかもしれません。「総合」博物館とは、まさにモノとコトの総合でもあります。」

 「コト」は「情報」である。そして「情報」は他人と共有することによってはじめて意味を持つ。それを支えるのが習俗であり、流行(a la mode)であり、時代の文化などである。
 「土用丑の日のうなぎ」は、江戸期につくられた宣伝文句だが、それが習俗となり今に残る。「うなぎ」そのものが美味しい季節だからではない。
 「節分の恵方巻き」は古来の習俗を復活させようとする商業主義が背景にある。

 しかし、他人と共有できる情報は、各人の価値観が違い、生活環境も違い、細分化されている。その一方で「ブランド」や「マスコミ」に価値判断を依存することが多く見られる。情報過多の中で、ゆっくりと「コト」を楽しむ基準が探せないのかもしれない。

 「習俗」を支えてきたのは、「地域社会」であった。
 その地域社会は、都市化の中で瀕死の状態にある。情報を共有する基盤が崩れ、変質したのである。
 
 
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迷惑

 「迷惑をかけるな」 「はた迷惑な話だ」
 などといって使われる「迷惑」は、「わずらわしく、いやな目にあう」ことを指す。

 受けた被害が、それほど大袈裟に騒ぎたてるほどのことでもないが、そのまま放っておくにはシャクにさわる。その程度の精神的苦痛を受けて、抗議してやろうか、それとも我慢しておこうか、とあれこれ思いわずらい迷い悩む、そのような状態をいう。

 この言葉はもともと仏教からきたもので、仏の教えが理解できず「思い迷い」「惑=とまどう」状態を「迷惑する」といった。
 つまり、物の道理がわからず、自分自身が迷い惑うありさまを意味した。
 それがいつのまにか、自分が「迷惑」であったために引き起こした行動(結果)のこととなり、さらに自分の心・行動を示すのではなく、他人への加害を意味し、しかも被害者が主に使う言葉となった。

 日本語では、主語が略され、蔭に隠されることが多い。
 特に「古文」を読むときには苦労する。直接「名指し」をするのは「言霊」による祟があるとされた名残である。
 主客転倒は珍しい現象ではない。
 
 だが、悟りが開けず生きていること自体が「迷惑」なのだから、「迷惑をかけない」で生きてゆくことは難しい。 
 
 
仏教用語の基礎知識 (角川選書)

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我慢


 「我慢しろ」などと使われ、自分を押さえて耐えることとされる。
 「辛抱」と似た言葉。
 この表現の違いを次のように言った人がいる。

 「我慢」とは、精神的肉体的に苦しくて訴えたい気持ちを発散させないで抑えること。 「辛抱」とは、環境の苦しさに押し流されないで、向上心を持ち続けること、
  だから、「辛抱はしても 我慢はするな」。「我慢し過ぎると爆発する、だが辛抱すれば何時かは華が開く」などとして使い分けられることがある。

 だが、「我慢」は、仏教の言葉からきたもので、本来の意味とは全く違うものになってしまった。

 仏教が説く「慢」は、「思い上がる心」のことで「七慢」があるとされた。

 1.慢   自分より劣っている人に対しては自分が勝っている、とうぬぼれ、同等の人      には、自分と等しいと心を高ぶらせる。
 2.過慢  自分と同等の人に対して自分が勝っているとし、自分以上の人は自分と同等            とする。
 3.慢過慢 勝っている人を見て、自分はさらに勝っている、とうぬぼれる。
  4.我慢  自負心が強く、自分本位。
  5.増上慢 悟っていないのに悟ったと思い、得ていないのに得たと思いおごり高ぶる。  6.卑慢  非常に勝れている人を見て、自分は少し劣っている、と思う。
  7.邪慢  間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張り、徳が無いのに有ると            思う。

    いずれにしても、他と比べて自らを過剰に評価して自我に捉われ固執し、福徳や悟りを具えていないのにそれらを修得していると思い込む煩悩だとされる。
 「我慢」は、悟りを妨げる「煩悩」であって、否定されるべきものであった。
 だから「我慢をしてはいけない」のである。何時か暴発するから「いけない」のではなく、根本的に「悪しき煩悩」なのであった。
 
 それが、「我慢、我慢、何事も我慢」(辛抱する)というように、まるで反対の意味になった。
 仏教用語としての「我慢」は、むしろ現在の「我儘」に近い。
 だが、「我儘はだめよ、我慢しなさい」などとして使わるのが現在である。

 本来の意味は、「痩せ我慢する」という言葉の中にわずかに残されている。
 辞書には「無理をする・虚勢を張る・意地を張る・意地で我慢する・(頑として)筋を曲げない・誇りを保つ・泣き言を言わない・弱みを見せない・(建て前の放棄を)潔しとしない・(つらくても)平気を装う・(平気な)振りをする・(形勢不利でも)へらず口をたたく・(妙なところで)肩肘を張る」こととされる。
 この中の「虚勢を張る・意地を張る」は、仏教でいう七慢の四番目「我慢=自負心が強く、自分本位」に近い。
 だが、日常的には「やせ我慢」も「無理して自分を押さえて耐えること」を意味しており、その姿が「虚勢を張る・意地を張る」状態と見るに過ぎない。

 仏教に根源を持つ言葉で、このように逆転した意味で使われるものは少ない。
 この現象が何時、どのようにして起きたのか。
 少なくとも江戸期には、現在と同じように使われていたから、それ以前である。
 中世初期、仏教と神道が激しく論争した時期がある。主に伊勢神宮の外宮が中心となって起こされた言説であるが、このへんに起源があるのかもしれない。
 だが、これは単なる思いつきであって、それを調べる手順は全くない。


 
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蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)

 「蛇の道は蛇」とは、「その道の専門家」は、「その道」をよく知っているということの例え。
 似た意味のことわざに「餅は餅屋」というのがあるがニュアンスが違う。
  「その道」というのが悪徳商売、窃盗など反社会的な場合に多く使われる。

 「蛇(じゃ)」は、「ヤマタノオロチ」など古代神話の世界で活躍しただけではなく、「蛇神」(水神)として豊穣の信仰を受けた長い歴史がある。
 その中で、このことわざに関連する最初の文献は『古事記』『日本書紀』の三輪山の話であろう。

 『古事記』
  〈活玉依姫(いくたまよりひめ)の元に、夜毎通ってくる男があった。その素性を知りたくなり、男の衣服に針を通した糸を刺しておいた。糸は三輪のお社で止まっていた。 男の正体は、大神神社の祭神・大物主神だった。〉

 『日本書紀』
 〈倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)のもとに、毎晩通ってくる男があった。三輪山の大物主神である。
 大物主神は暗くならないと現れず、夜明け前にどこへともなく去っていった。
 そのため、倭迹迹日百襲姫命はその顔を見ることができず、不満だった。
 あるとき、倭迹迹日百襲姫命はたまりかねて大物主神に言った。
「たまにはもう少し遅くまでとどまっていてください。そうすれば私は、あなたのうるわしいお姿を見ることができます」
 「では明日の朝、私はあなたの櫛(くし)箱の中に入っていよう。ただし、真の私の姿を見ても、決して驚かないように」
 倭迹迹日百襲姫命は変に思ったものの、翌朝、まさかと思って櫛箱を開いてみた。
 するとそこには、かわいらしい小さなヘビが入っていた。
「私だ。大物主だ」とヘビは言った。
 倭迹迹日百襲姫命は悲鳴をあげた。
 大物主神は人の姿に戻ると、ブリブリ怒った。
「おまえは私に恥をかかせた。今度はおまえが恥をかく番だ」
 大物主神はそう捨てゼリフを残すと、大空のかなた、三輪山のほうへ飛んでいった。
 倭迹迹日百襲姫命は後悔した。力が抜けたようにしりもちをついた。
 その折、箸(はし)が局部に刺さり、死んでしまったという。〉

 この神婚神話の蛇は、その後も語り継がれ、例えば『平家物語』では、豊後緒方家の祖先の談として次のように描かれている。(概要)
 〈緒方家の先代に、或る美人あり夜な夜な壮男通ふ。誰人知らず一日母の教に従い男の狩衣の襟に針を刺し、賤の緒巻(しづのおだまき)をつけ翌日之を慕ひ行くに、日向豊後の国境祖母岳の岩屋に入る。女声をかくるも男出でず。無理に入り見れば大蛇なり。針は大蛇の咽に立つ。女が遂に男を生む。これ即ち緒方氏の祖先なり。〉

 中世において、この話は伊勢神宮にも引き継がれ、内宮に祀られていたアマテラスが外宮のトヨウケ姫に、夜な夜な通ったという物語に変節する。
 鎌倉時代初期に書かれた僧・通海の『大神宮参詣記』には、
 「斎宮の御衾の下に、毎朝蛇のウロコが落ちていた。内宮の天照大神は蛇神であり、外宮の斎宮に夜毎通ってきた印である。」 という。記紀神話の天照大神は、女神であったが、ここでは蛇体の男神とされた。
 伊勢神宮の伝承については、屈折したものがあり、一筋縄ではいかない。この伝承は、その中のささやかな一つに過ぎないが、アマテラスをめぐる根源的なものを含む。
 
 神婚神話は人類の初源を示すものとして、多くの民族が語り継いできたものであり、神聖の証である。
 太陽神との神婚神話もある中で、ここでは「蛇の姿」で原初の神が現れる。しかも、夜に紛れた「密かな行為」であった。
 「蛇(じゃ)の道」とは、「蛇(へび)」だけが知る「密かな道」で、このことわざはこれらの神婚神話に源があるのではないだろうか。

 大物主神も天照大神も、倭の大王とも崇められた神である。堂々と「妻問い」をすればいい、というのは庶民の感覚である。
 「密かな行為」と見られたことで、「蛇の道は蛇」には暗さが残った。
 
 
 
 
アマテラスと天皇: 〈政治シンボル〉の近代史 (歴史文化ライブラリー)

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