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六日の菖蒲、十日の菊

 
 「六日の菖蒲、十日の菊」ということわざは、今では使われなくなった。
 だが、このことわざの背景には、いろいろな歴史が隠されている。 

 五月五日は「端午の節句」で菖蒲を軒先に吊るし、菖蒲湯に入る習俗があった。
 菖蒲は、疫病を防ぎ、邪気が家の中に入るのを防ぐものとされた。
 九月九日は「重陽の節句」で菊を愛でた。
 菊は、不老長寿の薬草とされ、菊酒を飲むことによって長寿を祈願した。
 いずれも、古代中国にその起源があり、わが国でも平安時代から江戸末期まで続き、民間の習俗に深く根付いたものである。
 「菖蒲」だけは、現在でもスーパーなどで手に入るので、「菖蒲湯」を楽しむことができる。

 上のことわざは、必要な日の翌日では「全く価値がない」ことを意味している。
 菖蒲そのもの、菊そのものという、「モノ」に価値があるのではなく、「節句を祝う」その「コト」自体に価値があるからである。
 「モノ」ではなく「コト」を重視するのは、文化が成熟していることの現れといえる。
 最近、いわゆる「マーケティング・コンサルタント」と称する人たちが、これからの消費市場は「モノ指向からコト指向へと変化している」などいう。この指向性はこの業界でも十数年前から指摘されていたのであって、全く新しい概念ではない。
 むしろ、すでに平安時代には見られた現象である。
 明治維新の際に、「旧い習俗は幕府の権威を踏襲するもの」として排斥されたため、混乱が起こった。習俗に秘められた「コト」の価値も切り捨てられた。

 問題は、「コト」の内容と意味付けである。

 『類語大辞典』(講談社、2002 年)によると
「モノ」は、「具体的な形をもち、見たり触ったりすることができ、どこかにあったり、             動いたり変化したりする、生命のない、あるまとまりやかたまりを典型と              し、さらにそれらに見立てられた存在を幅広くいう語」
「コト」は、「ものが存在したり、生じたり、動いたり、消えたりして、変化し展開して      いく姿を、時間の流れのなかでひとつのまとまりとしてとらえていう語」

 この説明は難しい。むしろ、「モノとコトの博物館」( 北海道大学総合博物館 )の説明が明解である。
 「博物館にあるさまざまなモノは、コト(=事/言)つまり情報とセットになって初めて意味をもちます。モノが具体的で目に見えるのに対し、コトは不確定で捉えがたい面があります。それぞれをハード/ソフト、あるいは理系/文系の対比で捉えることもできるかもしれません。「総合」博物館とは、まさにモノとコトの総合でもあります。」

 「コト」は「情報」である。そして「情報」は他人と共有することによってはじめて意味を持つ。それを支えるのが習俗であり、流行(a la mode)であり、時代の文化などである。
 「土用丑の日のうなぎ」は、江戸期につくられた宣伝文句だが、それが習俗となり今に残る。「うなぎ」そのものが美味しい季節だからではない。
 「節分の恵方巻き」は古来の習俗を復活させようとする商業主義が背景にある。

 しかし、他人と共有できる情報は、各人の価値観が違い、生活環境も違い、細分化されている。その一方で「ブランド」や「マスコミ」に価値判断を依存することが多く見られる。情報過多の中で、ゆっくりと「コト」を楽しむ基準が探せないのかもしれない。

 「習俗」を支えてきたのは、「地域社会」であった。
 その地域社会は、都市化の中で瀕死の状態にある。情報を共有する基盤が崩れ、変質したのである。
 
 
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