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大根


 「大根」と書いて「ダイコン」と読むようになったのは、江戸時代からであろう。
 大根がわが国に渡来した歴史を考えると、比較的新しい読み方といえる。
 それまでは「おおね」と発音するのが一般的で、飛鳥時代には「淤富泥」(おおね)とも表記された。
 
 その名残が、『古事記』『日本書紀』に収録されている仁徳天皇の歌に見ることが出来る。
  つぎねふ 山代女の木鍬持ち 打ちし淤富泥(おおね)
    根白の白腕(しろただむき) 枕(ま)かずばこそ 知らずとも言わめ
 仁徳天皇が皇后の留守中に、その妹と浮気したことがばれて、皇后は天皇のもとへ帰ろうとしなかった。
 仁徳天皇は、「おおね(大根)のように白い、あなたの腕を枕にして愛し合ったことを忘れはしないだろう」と、皇后へ恋歌を送った。

 奈良時代の悲劇の皇子・長屋王の邸跡から、大量の木簡が発掘された。その中に「大根60本」と書かれた荷札のようなものが出土している。これも「おおね」と読まれた。
 同時代の戸籍帳に、「大根売」「小根売」と書かれた人名が残されている。
 戸主を筆頭にして、その一類を表記したもので、年齢と性別が記されている。男にはそれらしい名があるが、女には「大根売」「小根売」と書かれていることが多い。
 「大根売」は(おおねめ)、「小根売」は(こねめ)と読まれたのであろう。
 今風にいえば「どこそこのダイコンちゃん」というような愛称だったのかもしれない。 現在の柴又地区の古文書が残され、そこには「大根売」「小根売」とともに、「寅」「さくら」という名が見える。「柴又の寅さん」の歴史はこのように古い。

 平安時代中期、927年(延長5年)に完成した律令の施行細則である『延喜式』には、
 「蘿菔(ラフ・ラフク)」「蘿蔔(ロポ)」として記載されている。
 『内膳司』(延喜式巻39)には「蘿蔔、味醤漬苽、糟漬苽、鹿完、猪完、押鮎、煮塩鮎、瓷盤七口。高案一脚。 右 従元日、于三日。供之。」とあり、正月三が日のお供え物として使われた。
 蘿蔔が「鏡草」として後世まで伝えられた起源はここにある。

 しかし、「蘿蔔」という表記より「大根」と書き、(おおね)と読むのが長かったようで、『徒然草』では「土大根」と書き(つちおおね)と読ませている。ここでは大根を焼いて食べた。
 また、『蜻蛉日記』安和元年(968)九月、長谷寺参詣の条には次のように書かれている。
 「旅籠どころとおぼしきかたより、切り大根、柚の汁してあへしらひて、まづ出したり。」
 これも(おおね)と読む。しかも、今でも食べられている「柚大根」がすでに登場しているのが面白い。

 大根が渡来してからほぼ千年の間、どのように食べられたのか、その記録は殆どない。 
 庶民の間に「大根料理」が定着したのは、江戸初期ではないかと思われるが、それも料理本や栽培方法を書いた農書などの文献が多く残されているからに過ぎない。
 『享保・元文 諸国産物帳集成』(1735-39)によると、全国に163種の大根があったという。同じものが呼び方を変えて使われていたと考えられるが、多様な品種があったのは事実である。
 それらをどのように料理するか、それは料理人の腕の見せ所で、『諸国名産大根料理秘伝抄』などの料理本が風靡した。
 同時に、「蘿蔔」(ロポ)も使われたが、「大根」を漢音で(ダイコン)と読むのが一般化した。
 
 今「千六本」という名に「蘿蔔」の残滓がある。「繊蘿蔔」(センロポ)、すなわち「繊に切った蘿蔔」であり、繊維に添って細切りにした大根のことである。
 江戸時代の川柳に、「五百三本に切る下女」というのがある。
 包丁が下手で、大根を細く切れないのを揶揄したものである。

 「蘿蔔」の表記は、中国料理に現在でも引き継がれ、特に正月の「蘿蔔餅」は欠かせないものようで、その作り方には地方により、家により様々であるという。
 邱永漢の『食は広州に在り』には、そのこだわりぶりが楽しく綴られている。

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